大阪・日本棋院関西総本部の特別対局室。中央に碁盤がひとつ置かれた和室の天井には盤上を映すカメラが据え付けられている。井山裕太九段が碁盤に向かって正座すると、これまで繰り広げられてきた数多(あまた)の戦いの空気が部屋の中に立ちのぼってくるようだ。普段は右利きで、碁石を握る時だけ左利きになるという井山の左手がしなり、石が盤上の一点を打つ音が周囲の空気を切り裂くように響く。
2016年4月20日、午後5時21分。伊田篤史十段が投了を告げ、井山が3年前に失った十段のタイトルを奪還した瞬間は、日本の囲碁界で史上初の7冠を独占した瞬間でもあった。
棋聖、名人、本因坊、王座、天元(てんげん)、碁聖、十段。これまでその時々の最強と言われた棋士たちは、複数のタイトルを同時に保持することはあったが、井山が6冠を達成するまでは張栩(ちょうう)九段の5冠が最多。オフシーズンがない囲碁の世界で、一年中絶好調を保ち、すべてのタイトル戦を勝ち続けるのは至難の業だ。
「6の次は7なんですけど、とてつもなく遠いんですよね。23歳の時に一度6冠までいったんですが、2つタイトルを失って4冠に後退した時は、残念な気持ちもあったけど7冠の期待から解放されたというか、少し楽になった気がしたものでした」
そこから3年後、また6冠を独占し、再びチャンスが訪れた。この時は「7冠は究極の目標」と自ら口にしていたように、最後のチャンスという気持ちで臨んだという。囲碁のことを知らない人までもが注目する対局は、どれだけの緊張を強いられるのかと考えるだけで息苦しくなる。
「報道陣も多く周りの雰囲気は異様というか普段と違いましたが、対局が始まってしまえば碁盤に集中するだけですから、いつもと変わらずに打てたと思います。でも、対局前はいろいろ考えてしまうこともありますよね」
大きなタイトル戦の日の朝は気持ちが悪くなることがあると、かつて話していた。
「自分の意識ではそこまで緊張しているつもりはないんですけど、体のほうが緊張しているんですかねえ。今はそれにも慣れて、こういうものだと思っていますので、何かが影響するということはないんです」