障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド

2017年9月14日

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本コラムは、障害を持ちながらも社会で活躍されている方を取り上げ、予期せぬ病気や事故などで障害を負ってしまった方が、その人をロールモデルとして、勇気を出して社会に踏み出してもらいたいという主旨で企画されました。
初瀬勇輔さんと田中暢子さん

 今回の「障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド」は、桐蔭横浜大学の田中暢子准教授をお迎えしました。田中先生の専門・研究分野はスポーツ政策学、健康政策学、スポーツ社会学、障害学で、スポーツ政策学・スポーツマネジメント学の博士号を有し、スポーツ庁オリンピック・パラリンピック課技術審査委員会委員や日本パラリンピアンズ協会のアドバイザーなど多数の団体や委員、研究機関などの役員を務めておられます。

 今回ご紹介する田中先生は14歳のときに骨肉腫を発症し大腿部から左足切断を余儀なくされました。大好きだった陸上競技を断念し、高校進学時には障害者ゆえに志望校を受験することすらできなかったという青春期を送られました。

田中:何が辛かったというと二度と走ることができないよと、手術の前夜にお医者様に言われたことです。それに抗がん剤で髪は抜け落ち、副作用で太ってしまい、松葉杖をついて、見た目にも自信を失っていたときに公立高校からは受験することさえもすべて断られてしまいました。

 陸上競技の推薦で声を掛けてくれていた高校を受験しようとしたら、松葉づえで受験会場に来られたら他の受験生に精神的苦痛を与えるからやめて下さいと断られました。

 「他の生徒にも良い影響があるでしょうから、ぜひ来てください」と言ってくださった関東学院六浦高等学校に進学しました。

初瀬:その当時はパラリンピックが一般的に知られていない頃ですから、足を失ったらもうスポーツはできないとなってしまう時代ですか。それにしても松葉づえだからという理由で受験ができないなんて、考えられません。

田中:得意だった体育は高校の間は当然見学でした。ただそれによって初めて体育が嫌いな子がいることを知ったのです。自分が得意だったから、そんな子がいるなんてまったく知りませんでした。その経験が後に大学の教員になったときに生きてきました。

初瀬:現在の桐蔭横浜大学に勤務される前に障害者スポーツセンターに勤務したり、イギリスに留学したりと様々なご経験をされていますが、現在は文部科学省やスポーツ庁、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会、私が役員を務めている日本パラリンピアンズ協会など、数多くの理事や委員を務めておられます。何が田中先生を突き動かしているのでしょうか。

田中:大学を卒業して広島県の障害者職業センター(現:独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構)で職業カウンセラーとして勤務していたことがあって、そこで会うのは私のような身体障害者ではなく、知的障害や精神障害のある方たちでした。お会いしているうちに、私は、スポーツによって彼らの可能性を広げたいと思うようになっていきました。親友がうつ病にかかり、後に心筋梗塞で亡くなったことも障害者スポーツに深くかかわるようになったきっかけです。

 それで1992年に開所したばかりの横浜ラポール(障害者スポーツ文化センター)のスポーツ指導員になって5年間勤めました。

 その後、「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」に応募して、オーストラリアに国際研修生として行きました。

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