この動きは16年から一気に加速する。10月、英空軍の戦闘機、ユーロファイターの部隊が日本の三沢基地に飛来し、航空自衛隊と共同訓練を行った。米国以外の空軍戦闘機の部隊が、日本本土に展開して、自衛隊と共同訓練を実施したのはこれが初めてであった。同じ時期、陸上自衛隊富士学校のレンジャーが英国のウェールズの基地で、英陸軍や米海兵隊の部隊といっしょに偵察活動の共同訓練を実施した。17年5月には、陸上自衛隊、英陸軍、米海兵隊、それにフランス海軍が参加した日米英仏の共同演習も初めて実施された。多国籍の演習ではあったが主導しているのは日英であった。
そして、18年、英国陸軍の部隊が日本の富士山麓の自衛隊演習場に派遣され、陸上自衛隊との初めての共同演習を行うことや、海上自衛隊と英海軍の対潜水艦共同演習も予定されている。
一方、こうした部隊間の交流を進めるための法整備も順調に進められ、17年1月、日英の部隊同士で互いの補給物資を融通し合う物品役務相互提供協定(ACSA)が結ばれたほか、部隊が相手国を訪問する際の法的地位を定めた訪問部隊地位協定(VFA)の締結についても現在、日英間で作業が進んでいる。
歴史の偶然ではなく地政学的な必然
このように急ピッチで進む日英協力だが、「復活」とは言っても、厳密に言えば、かつての旧日英同盟とはその目的も構造もまるで違う。21世紀の世界にふさわしい新しいタイプのものである。
旧日英同盟はユーラシアのランドパワー(内陸国家)であるロシアが領域外に拡大しようとするのを、シーパワー(海洋国家)である英国と日本が連帯してこれを阻止しようとする軍事同盟であった。1902年に最初の条約が調印され、その後2回、条約が更新され、23年に解消されるまで、20年余りにわたって続いた。
当時の日本は大陸への進出を果たしたいと考えており、ロシアが満州に関心を示していることを警戒していた。他方、英国もロシアが中国や中東地域へ進出を図ろうとしていることを警戒していた。しかし、当時の英国は南アフリカでの戦争に注力しており、アジアに力を注ぐ余裕がなかったため、新興国だった日本の力を借りる必要があったのである。それは、日本にとって国際社会での日本の地位を高めるという効果が期待されたし、事実、そのようになった。04年に起きた日露戦争で日本が勝利すると、日本は史上初めて欧州を下したアジア国家として世界から注目を集めるようになったのである。ただ、その後、米国が日本の台頭を警戒するようになり、旧日英同盟は23年、解消した。