明治の反知性主義が見た中国

2018年10月4日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

中国人の戦略的発言を「鵜吞み」にする日本人の病い

 いよいよ原田は北京に足を踏み入れる。

 昔日の壮大な建造物は軒並みに破壊を極め、「宮城の周圍にして尚ほ壁は落ち軒は傾き草は青々をして人路なきを見る」。「大街(則ち大通り我銀座の如き塲所)左右に人糞堆く惡水路傍に泥濫する」だけではなく、「其他得も知れぬ不潔の人間三々五々彼方此方に轉り居る」。「北京に都せし當時は滿人の武勇は四百余洲に冠たりしならんも今は都人と化し去」ってしまい、「昔日の武勇は大道講釋師の口頭の存する耳」である。

 かつて満天下に勇壮で鳴り響いた満州八旗兵だが、いまや「零落して馬丁となり夜番となり又は賭博阿片窃盗等あらゆる遊民の所爲を爲し」、なかには京劇役者に身を窶し、あるいは乞食になり果てた者もあった。「清人自ら深く顧省せん事を望む」――原田にとっての北京はダメな清国の集大成だったのだ。

 その後、北京から北上し山海関で万里の長城を越えて東に転じ、当時の満州唯一の対外港であった営口に向う。道中は相変わらず汚い、穢い、キタナイ。

 営口では「山東省の儒生王之臣」と出会い、筆談を交わしている。原田が綴る漢文が我流気味であり意味が判然としない部分もあるが、敢えて以下に意訳してみた。

原田:貴国のための「至言」を考えておりますが、お聞き願えますか。

王:ご教示を願います。

原田:「中國」をみますと、国はすでに滅び、儒者もまた腐敗しています。西洋人に対し「中國の大臣」が対応できない。これが「中國の亡び」です。主権は西洋人の手に握られ、「中國」は自らを保つことが出来ない。「無主權の國已に亡し」といいます。はたして御国には「生氣」というものがおありでしょうか。

現に政令は行われず盗賊は横行し、東に馬賊あれば西に匪賊あり。だが官は彼らを根絶できない。「中國の死」です。にもかかわらず儒者は「聖王(こうし)」を戴いて服従し、外人の無知を蔑視するばかり。実は腐敗しているのは儒者なのです。敵を知り己を知れば百戦危うからずとは孫子の訓えですが、「中國」は連戦連敗。敵も己も知らないから、当り前です。依然として徒に隆盛を誇り「生氣」を口にしていますが、全く信じられません。

 原田は清国を因習に囚われた時代錯誤の巨大な「夜郎自大」国と見做した。これに対し「山東省の儒生王之臣」は「不錯、不錯(ごもっとも)」と応じている。だが、こういった応答を真に受けてはいけないのだ。

 「不錯、不錯」にみられるような、コチラの意に沿った発言に日本人は弱い。その典型が蔣介石の「怨みに報いるに徳を以てす」であり、毛沢東の「日本軍国主義は日中両国人民の敵」であり、鄧小平による東シナ海海底資源問題の棚上げ発言だろう。歴代の中国の政治指導者が巧妙に発した“戦略的発言”が、現在まで続く日本の対中外交の手足のみならず脳髄まで縛ってしまったことを忘れるべきではない。

「日本の存在」を知らない満州の人たち

 満州に歩を進めた原田は、山海関以南との違いに気づく。

 「北方に進むに從ひ」、先ず感じたのは「當地方の清潔なること」だった。「田舎には珍しく旅店飲食店等皆清潔を極むるなり」。「東北に進むに從ひ馬鹿の大男とでも評す可き乎皆骨格大にして強壮の感あり」。とはいえ「清人の無智なる今更申すまでもなき事なれど(中略)一層の無智を知る」。そこで彼らに「充分体育德育智育の三育を兼ね敎へなば西洋に劣らざるの人物を得べき」だろうが、「惜い哉敎育とて別に學校の設けあるにあらず」。それゆえに「馬鹿の大男」のままで終わってしまう。

 人々が「予の身邊に就き纏ひ石を投じ罵詈を爲し其無禮云ん方なし」は山海関以南と同じだが、「性質は南方の如く狡黠ならず至て質朴を極」めている。

 原田は満州で驚くべき光景を目にした。先ずは女子供の喫煙である。

 「喫煙の流行は何地も同じ事」だが、満州では「妙齡の女子長さ三尺もあらんと思ふ煙管を携えへ寸時も之を放」さない。道を歩くにも、仕事をするにも「肌身を放さ」ない。加えて「十二三の小兒にして尚ほ大煙管を持ち喫煙」する始末。乳飲み子から13,4歳の4人が「銘々煙管を携へ居りて鼻をたらしながら喫烟を爲すは實に見苦し」い光景に出くわしている。乳飲み子は自分用のキセルを持っていないようだが、「母の烟管を取てスッパスッパ喫烟する」という有様だ。彼らがタバコを吸っていることは問題だが、これがで「大烟」、つまりアヘンだとしたら大問題だろう。

 次が、日本を知らないことである。

 「満州の田舎に入りては日本てふ國は未だ聞きしことなしと云ふ者多く漸く地圖を開き是を見せしめて初めて日本國を知る有様なり」。「日本は素より小なりと雖も一葦帶水の地方」であるにもかかわらず、満州の人々は名前すら知らないという。そこで原田は「實に日本人の恥辱と云ふ可き乎」と慨嘆し、「抑も又他の無智の罪なる乎」と頭を捻った。

 だが、日本人としては嘆く必要もなさそうだ。日本を知らないから、当然のように日本人も知らない。かくて日本人として「初めて遊歷する者は彼等の善き見世物」であることに甘んじなければならない。だが彼らは日本人を見ることで「目の正月」を感じ、「七十五日の長命を得」るような――日本人という《美しいもの》に接したことで長生きをしたような――気分になるらしい。

 満州にやって来て初めて満州の地が満州人と漢人の雑居地であることを知った原田は、「此地方清人等の暴慢無禮」を憤る。宿屋に入ると、ドカドカとやってきては日本刀から中身を抜き取って眺め、カバンを開けてタバコや矢立などの持ち物を取り出し触りまくり、挙句の果てに値段を問い質す。「若し日本人の三十年前ならしめば所謂手打ちの英斷をなす者あるべし」。「無敎育の人間とは云ひながらさても無禮の者ども」ではあるが、異国の地では多勢に無勢だ。やはり我慢するしかなかった。「偖も悲しき旅なる哉」とはいうものの、「日本の魂性」に囚われている限り、彼らの“真実”は見えてはこない。

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