明治の反知性主義が見た中国

2018年10月4日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「日本は中国のどの省に属すのか?」

 明治25(1892)年10月の半ば、奉天で天主堂を訪れた。

 現れたのは2人のフランス人で、1人は「清國にある已に十三年なり」。ということは彼の奉天着は明治10年代初頭(1880年代末)と考えられる。おそらく彼は日清戦争前後の奉天における情況をフランス本国に報告しているはず。そのまま留まったとして、はたして10余年後の日露戦争を目撃していただろうか。その可能性は否定できない。やはり日露戦争の戦況を逐一記録し、これまた本国に報告していたことは十二分に考えられる。

 フランスに倣って、イギリスもアメリカもドイツもロシアも満州にインテリジェンス・ネットワークを張っていたはずだ。満州利権をめぐる列強間の戦いは、日清戦争の戦端が開かれるはるか以前から始まっていたのである。

 当時の奉天は「戸數十万と云ふも其實三万内外」で、「商業又滿州第一位を占むるが如し」。満州は「道路橋梁の不完全なると河川沼澤の多き爲春夏秋冬は運送尤も不便を極め」るところだ。運送の便は、11月から2月までの冬の4ヶ月に取引は集中する。

奉天・満州人街の賑わい。1933年(写真:近現代PL/アフロ)

 この間、満州各地の物資が奉天や牛荘(営口)などの都市に集まるから、物価が下がる。そこで「此期に乘じ中央支那の商人滿州に入込み賣買に從事」する。そこで、すでに死んだような状況である「中央支那及び北京」では想像できないような大盛況をみせることになる。かくして原田は、「清國中活潑の氣慨又滿州にあらん乎」と考えた。

 奉天を離れ吉林経由で鴨緑江を渡り朝鮮に向う。

 奉天から朝鮮に至る道中で接した人々は「殊の外質撲」だが、同時に「遲鈍」だった。「山中住民の無識なるは眞に驚くの外はあらざるなり」。それというのも「彼等は地球上唯清國と英佛二國あるを知る耳」であり、「予が大日本と云ふも普通四十以下の人物は之を解すること能はず」。これに対し「六七十の老人中時に日本を知るもの」があるが、老人は「東方に當り高麗琉球日本の三國ありと物知り顔に」語る。

 時には原田に向って「足下は英國なるか但しは佛國なるか」と問い掛けてくるから、「予は大日本國なりと答へ」ると、日本からフランスまでの距離を質問する始末だった。「餘り馬鹿々々しさに答ふる言なき」ゆえに、「彼らの愚蒙を啓發し呉れんと世界地圖を取出し」て日本が「交際を爲すもの現今にて四十余國」と説くが、やはり暖簾に腕押しだった。

 「四十余國」のなかで清国は大きいとはいうが、ロシア・イギリス・アメリカの「三國に比する時は三分の一に足らざる小國」にすぎないと説く。すると「彼等は大に驚き」、喧々諤々の議論を戦わせるが、地図を見せれば沈黙せざるを得ない。それでも「滿州の山中に止まらず清國中央部」においても「相當の學識を備へしもの」ですら、「日本國より清國に對し何等の貢租ありや」「日本は清國何省に附属するや」「日本にも王ありや」などといった質問があった。かくて原田は「無智も又甚しと云ふ可し」と呟くしかなかった。

 日清戦争を2年後に控えた満州における日本認識は、この程度だったのである。

「韓人」を見下す「清人」

 やがて原田は朝鮮半島に入る。

 「久々に人間の社會に入れりと思」った原田は、「滿州現今の人種は多く山東省より來ると云ふ」と綴る。「山間僻地と雖も相應の移住民あり」というから、満州の漢化、いいかえるなら漢族による満州の植民地化は相当に進んでいたわけだ。

 朝鮮滞在の最初の夜、酔っ払った朝鮮の役人が原田の宿舎を訪ねてきた。どうやら西洋人だと勘違いして最初は「殊の外強豪を粧ひしが」、日本人だと判ると態度を急変させ、馴れ馴れしく話し掛けてきた。「清國官吏に對するの擧動に似ず接遇甚だ不禮なり」。どうやら「朝鮮人も日本人に對する時は此位の地位を保つと清國人に誇るため」らしい。我われの方が日本人より数段も上等だと、清国官吏に見せつけたいのだ。

 原田は朝鮮官吏の「無禮を責め其擬勢を挫じきて呉んと思」うものの、「馬鹿を粧ふも一得なりと漸く忍耐し」た。

 ここで原田は「特に記す可きは清人の韓人に對する擧動なり」とし、満州各地における「清人の韓人に對する無禮」の振る舞いを挙げている。

 たとえば「普通清人にても朝鮮の官吏を見て高麗高麗と呼び决して其氏名を呼ばず」。朝鮮人が深々と頭を下げても清国官吏は椅子に座ったまま「答禮を爲さず」。「普通の清人韓人を捉へて嘲弄を爲すも韓人憤りを爲さず」。当時、中国大陸と朝鮮半島の権力・上下関係はこのようなものだったわけだが、果たして現在でも本音の部分では、こうではないだろうか。「中朝の血で結ばれた友誼」やら「中韓の友好」の掛け声は、その時々の政治的ゴ都合主義に過ぎないということだろう。歴史に根差した民族蔑視は政治的事情だけでは解消しそうにないのだ。

 * * *

 「明治二十五年十一月十九日朝鮮國京城に到着」し朝鮮各地を歩いた後、原田はシベリアに向った。

 一般の日清交渉史に原田の名前が登場することはない。はたして原田は何者なのか。日本の大陸政策に口を差し挟むことになる所謂「満州浪人」とも「支那通」と色合いを異にしているように思える。その生涯を知ることができない以上、いまは「勇膽敢爲の氣性」に充ちた明治人としておくに止めたい。なお『父氷山藤田藤一郎』(藤田街編 1940年)との書名を見つけたが、未見である。

  
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