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2018年12月6日

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樫山幸夫 (かしやま・ゆきお)

産經新聞元論説委員長

産經新聞元論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員などを経て、2015年6月から産経新聞社監査役。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

 ワシントンDCの日本大使館旧館ロビーに数年前まで、一台の時代がかったタイプライターが置かれていた。日米が先端を開いた真珠湾攻撃の際、米側に手交された交渉打ち切り通告の作成に使用されたともいわれている。

(AdrianHancu/Gettyimages)

 日本を破局に導いたあの日から8日で77年。すでに歴史の範疇に入ったと言うべきだろう。が、「パールハーバー」をめぐっては、なお隠されたドラマ、未解明の謎が少なくない。そのひとつは、日本側の不手際から対米通告が攻撃開始後まで遅延してしまったことだ。戦後になっても日本は「だまし討ち」の汚名を浴びせられ続け、それはいまなお払拭されたとはいいがたい。

 学界、ジャーナリズムで、多くの議論が交わされてきたにもかかわらず、「国辱」ともいえる失態について明確な原因究明、だれに責任があるかについての解答が見いだされるに至っていない。時の流れの中で、もはやそれは望めないだろう。しかし、これまで明らかになった経緯を基に得られた教訓を活かすことはできよう。いまの時代にあっても、決して無駄なことではない。

攻撃から1時間近く遅れる

 日米交渉の打ち切り通告といっても、学校の社会科で習った記憶がある程度で、詳しく知っている人は少ないのではないか。簡単に経過を説明する。

『ハル回顧録』

 1941(昭和16)年、欧州の戦火が激化する中で、日本と米国は、日本の中国からの撤兵問題(日中戦争が始まっていた)や米国が反発する日独伊3国同盟などについて、この年の春から交渉を行っていた。11月下旬になって米国から強硬な最後通牒(当時の国務長官の名を取って〝ハル・ノート〟と呼ばれる)を突きつけられ、日本は戦争を決意。開戦日を12月8日(アメリカ時間7日)と決めた。

 外務省は、宣戦布告にあたる交渉打ち切り通告「対米覚書」を攻撃開始のハワイ時間7日午前8時、ワシントン時間午後1時半の30分前にハル国務長官に手渡すよう、ワシントンの大使館に指示した。ところが、前夜から送られてきた「覚書」は分割されたうえ長文に渡り、最後の一節にあたる第14部と国務長官への手交時刻を伝える指示電報が到着したのは7日午前、すでに時が迫っていた。

 解読、清書に手間取り、結局、野村吉三郎、応援派遣の来栖三郎の両大使がハル長官に面会したのは午後2時20分、真珠湾は火の海と化していた。ハル長官は「日本は野村、来栖が私に通告を渡すよりも1時間以上も前に、無警告で真珠湾を攻撃した」(『ハル回顧録』、中公文庫193ページ)と非難、「無警告攻撃」はその後も米側の宣伝材料として利用された。

真珠湾攻撃に参加した海軍機「中島 九七式艦上攻撃機(B5N)」(Michael Fitzsimmons/Gettyimages)

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