定年バックパッカー海外放浪記

2019年3月10日

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高野凌 (たかの りょう)

定年バックパッカー

1953年生まれの62歳。横浜生まれ、神奈川県出身。大学卒業後は商社、メーカー勤務を経て2013年定年退職。2014年春から海外放浪生活を始める。放浪歴は地中海、韓国、インドシナ半島、インドネシア、サンチアゴ巡礼など。サラリーマン時代は主として海外業務に従事。ニューヨーク、テヘラン、北京にて海外駐在を経験。身長170センチ、57キロ。獅子座。A型。現在2人のご子息は独立し、夫人との2人暮らし。孫1人。

(2018.2.24~3.24) 28日間 総費用42万円〈航空券含む〉)

サラエボの悲劇では国連は無力だった?

(PetrBonek/Gettyimages)

 3月21日。夕刻ホステル”でアルゼンチン出身のマリアとラウンジでおしゃべり。マリアはバツイチで現在独身。マリアは午前中にホステルが主催する2時間の無料ツアー(Walking Tour)に参加してサラエボ市内を歩いて来た。

 旧ユーゴスラビア社会主義連邦の解体の過程でボスニア・ヘルツェゴビナ独立を阻止するために、セルビア主導のユーゴスラビア軍とセルビア人武装勢力は1992年から1996年までサラエボを包囲した。

 このサラエボの包囲戦で1万人以上が犠牲になった。その大半が一般市民だったとツアーガイドから聞いたという。

 マリアによると、ガイドの説明で印象的だったのは「国連は何もしてくれなかった。UNとは“United Nation”ではなく,“United Nothing”だった」という国連への批判であったという。どうも国連はサラエボの悲劇においては無力(nothing)だったというのがサラエボ市民の偽らざる感情のようだ。

 ロシアが国連の安全保障理事会の常任理事国であるからセルビアやセルビア人武装勢力の後ろ盾として国連が実効性のある決議をすることができなかったのだろう。マリアは第二次世界大戦の戦勝国を自認するロシアと中国が常任理事国として居座り続ける限り機能不全の“無力な国連”は変わらないと酷評。

 参考までに国連の2019年予算の分担金負担ランキングではロシアは10位でありブラジル、カナダよりも下である。

無数の墓標に囲まれたサラエボ冬季五輪スタジアム

 3月22日。朝から雪が降り続く中、サラエボ市内から自転車で小一時間走ると、1984年の冬季オリンピック会場のスタジアムが見えて来た。

 スタジアムは丘の上にあり、市内から自動車道路を登ってゆくと雪に覆われた丘の斜面に教会と墓地があった。この一角の墓地は昔からの教区の墓地のようであった。さらに斜面を登ってゆくと無数の新しい墓標が規則正しく並んでいた。墓標は五輪施設の建物のすぐ近くまで続いていた。

 墓標の没年を見ると92年から数年間に集中している。セルビアによるサラエボ包囲戦での砲撃・銃撃や市街地での無差別虐殺による犠牲者の墓標だ。コーランの一節であろうか、何かアラビア文字が彫られている墓碑が多い。

 攻撃が激しかった包囲戦の期間中は犠牲者を正式に埋葬することができず仮埋葬しただけであったという。和平合意が成立してから現在のように共同墓地として整備されたようだ。

虐殺博物館(Genocide Museum)

 郊外の墓地から市内に戻り、前年に開館したばかりという虐殺博物館を訪ねた。ビルの2階の一隅に作られた小さな博物館である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中のセルビア人によるイスラム系ボスニア人(ボシュヤニク人)に対する民族浄化(Ethnic Cleansing)のおぞましさを物語る写真、映像、手記、遺品などが展示されている。

 受付の若い女性スタッフは二人ともスカーフをしており、一目でイスラム教徒であること分かった。以下に記述する展示内容については写真データやメモを失くしたので記憶を頼りに記した。何か記憶違いがあればご指摘願いたい。

正教徒、イスラム教徒、カトリック教徒の三つ巴による支配権争奪戦

 入口近くの壁に掲示されている当時30代前半だったボスニア人女性の手記(英語訳も併記されている)は余りにも悲惨であった。当時彼女は結婚して就学前の男児、女児、そして乳飲み子がいた。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まるとカトリック系のクロアチア人の民兵が村を襲い彼女は民兵達に強姦された。その後、セルビア人武装勢力が勢力を拡大。セルビア人民兵は村を制圧すると各家を家探しして金目の物を強奪して、成年男子を連れ去った。

 その後、彼女の家は別のセルビア人民兵団に襲われ残った家財を奪われ、男児はその場で射殺され、彼女自身も数人の民兵に強姦された。あまりの残虐行為に胸が悪くなった。

 彼女がセルビア人武装勢力に最初に襲われた時点から数年前にはボスニア人勢力によるセルビア人住民に対する虐殺事件があったという手記の記述が目を引いた。これだけ非人間的犯罪の被害者となりながらも、客観的な事実関係を手記に残している強靭な精神力に圧倒された。

セルビア人に救われたボスニア男性の奇跡の生還

 次に当時40代のボスニア人男性の手記を読んだ。彼は住んでいた家からセルビア人民兵により連行された。腕に囚人番号を入れ墨され、その後数週間にわたり収容所のような場所で強制労働と拷問の日々を過ごした。

 収容されているボスニア人は増えたり減ったりしていたが、セルビア人が役に立たない人間を処刑していることは分かっていたという。彼は逃げる機会を伺っていたが、あるとき作業中に親切なセルビア人老農夫が農家の床下に隠してくれたので逃亡に成功。九死に一生を得て、生き残った家族と再会できた。

 この虐殺博物館では“これでもか、これでもか”と人間性を失った狂気の残虐行為をつきつけられた。その中でこのセルビア人老農夫のエピソードは唯一の救いであった。

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