チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年5月24日

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平野 聡 (ひらの・さとし)

東京大学大学院法学政治学研究科教授

1970年、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授。アジア政治外交史担当。著書に『大新帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社)、サントリー学芸賞を受賞した『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会)がある。

(前篇はこちら)

 ところが清は、18世紀までに手に入れた領域を「神聖不可分」なものとして維持することが、内憂外患の時代における最後のプライドの拠り所であると考えるようになった。

 とりわけ19世紀中頃以降激化するヨーロッパ列強の拡張を食い止めるためにも、漢民族の「中国」から遠く離れた土地を囲い込み、そこに近代的な国家主権を設定しなければ安心できないと考えたのである。そこで1870年代になると清は新疆を回復したのみならず、そこに漢民族地域と全く同じ制度を敷いて中国化を進めるために、1884年に「新疆省」を設置した。

漢字や儒教の強要
「異分子」への不安

 さらに清は、日清戦争に敗れ、日露戦争で近代日本の「成功物語」に刺激されると、漢民族中心の「近代中国」を作ろうとする中で、漢字と儒教をチベット・モンゴル・トルコ系ムスリムに強要して「中国人」となるように迫る。

 何故なら、国内に言語が通じない異分子が多数いれば、いつ何時裏切りが生じて列強に走り国を割ってしまうか分からないという不安が募ったからである。逆に、国内の全員が「真の中国人」となれば、日本と同じように富国強兵に邁進出来るだろうと考えた。そこで、中国化のスピードを上げるため、戦乱にあぶれた貧しい漢民族を大量に送り込み、農場・鉱山開発などを大々的に進めようとした。

 これ以来、独自の文字・宗教文化・社会を守ろうとする人々が抵抗を始め、中国の民族問題が約一世紀にわたって深刻となっている。

出遅れたトルコ系ムスリムと内モンゴル

 この中で、チベット人はダライ・ラマという圧倒的な知名度を誇る存在と、独自の政府をそれなりに運営していたという経験を活かして、国際的な地歩を築き上げている。北モンゴル=モンゴル国も、辛亥革命後ロシアを頼って独立し、ソ連衛星国としての辛酸を経ながらも今日の繁栄に至っている。

 しかし、明確な政治的核がないトルコ系ムスリムと、清末にはほとんど独立運動が起きなかった南モンゴル(今日の内モンゴル。満洲人と騎馬民族の利益共同体をつくっていたためである)は出遅れてしまった。しかも、トルコ系ムスリムが住む新疆の地と南モンゴルは、いずれも標高が低く、鉱産資源が莫大に眠っており、漢民族の大量移住が可能である。このため、ひとたび近現代中国が「開発」を掲げて大規模投資と漢民族移民を推進すると、在来の社会はひとたまりもない。

ウイグル人のアイデンティティの出発点

 このような流れに直面したトルコ系ムスリムは、勿論手をこまねいていたわけではない。

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