2024年5月14日(火)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2024年2月3日

 一言お断りをしておきたいのだが、原作者が急遽第9話と第10話の脚本を書いたというのは、ここまでの例えで言えば、原作(と未発表の完結部分)との整合性を取るためで、50%ではなく100%に近づけるためと考えられる。だが、ドラマとしての一貫性ということでは、そこまで50%で進んできた内容との整合性も必要になってくる。

 そこで、第8回までの小ネタや、脇役を含めたキャラクター設定(キャラクターの成長や関係性の変化なども含む)と以降の整合性を取ることも必要で、支援に回った側の脚本家の側も「経験したことのない」苦労を味わったことは想像に難くない。その意味で、脚本家が流したインスタのメッセージは、現時点では非難されすぎということは言えると思う。脚本家に理解を示した人まで「炎上」となっているが、それも少し違う。

原作と映像化は一緒ではない

 一方的な憶測は当事者の方々に失礼なので、この辺りで止めるが、問題は「漫画の世界観をそのままに映像化」するということが、それほど簡単ではないということだ。例えばだが、次のような問題には簡単に答えが出ない。

 まず、漫画の読者は数十万人に対し、地上波ドラマの視聴者は百万人単位。したがって、テイストもストーリーの理解力も異なる。恐らく平均値、中央値も違う。物理的な問題として、ドラマや映画のフォーマット(時間、各回のメリハリなど)は漫画とはペースが異なるし、入れられる情報量も異なる。

 さらにドラマは移り気な視聴者の関心をキープするために、多くの工夫をする必要が出てくる。要するに、TVドラマというのは視聴層を拡大することが義務付けられているのだ。

 例えば社会的な価値観を強く反映させると、その価値観への賛否で潜在視聴層は半減する。知的情報を入れすぎても視聴層を限定する。その結果、原作の鋭い問題提起を無難な内容に削るなどの措置に走りがちとなる。地上波の制作陣や経営陣が保守的なのではなく、そもそもビジネスモデルとして保守的にならざるを得ない構造がある。

 原作のファンの不満として、よくあるのが「勝手に王道の展開に変えられた」とか「繊細なキャラへ勝手に恋愛脳が押し込まれた」というクレームがある。気持ちはよく分かるが、これも制作サイドに理解力がないとか、悪意で捏造しているのではない。王道のストーリーや典型的なロマンスのフォーマットに乗らないと世界観に入れない視聴者も取り込んで、初めて成立するビジネスだからだ。少なくともコアのメッセージを維持するためには、かえってストーリーなどで妥協しないと通らないという判断もありうる。

 そんなわけで、原作漫画のファンが映像化作品を見たら、違和感というか、そこに違いを感じるのはむしろ当然だ。反対に、ドラマで初めて物語のファンになった視聴者は、後で原作漫画に触れると、逆に原作の画風や価値観に違和感を持つこともある。


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