2024年5月14日(火)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2024年2月3日

日本が変わるべきこと

 考えれば考えるほど問題の難しさばかりが目につく。そんな中、この問題については、この先どのような方向で考えていったらいいのだろうか。3点提言したい。

 1つは、今回述べたような原作と映像化をめぐる複雑な利害関係について、原作者たちにも、また漫画(場合によっては小説)のコアなファンの間でも正確な理解が広まることが望ましい。その上で、改変が不可避なら映像化しないという判断もあるだろう。けれども、その一方で、映像化を拒否するということは、新たなファンを拡大する機会を放棄することであり、結局は原作者にとってもコアなファンにとっても、更なる作品の発表の機会を限定してゆくことになる。

 とにかく、原作者もコアなファンも、こうした映像化による改変の論議には、ある程度までは理解を示すことが求められる。つまり、原作至上主義だけでは届かない部分がどうしても残るということだ。

 2つ目は、そのためにも映像化における原作者への経済的な分配は高めるべきだ。一部の報道によれば、1クール(3カ月で10〜11回)のドラマや、1本の映画の場合、漫画や小説の「原作使用料」は数百万円程度だという。そもそも、原作がなければ作品は成立しないわけで、これはどう考えても低すぎる。原作者が経済的に強い立場になれば、団結したり弁護士に相談するなどの対策も取りやすくなる。

 3つ目は、国際的な観点だ。今回の事件は、日本のメディア各社が上場企業でありながら「書類など形式面のコンプライアンス」ばかりを重視して、本来の意味でのコンプライアンスを無視していたことを露呈した。つまり法令などの形式的な遵守だけでなく、高いレベルでの社会正義との親和性や紛争回避ということではスキルが全く足りなかったということだ。このままでは、日本のコンテンツ産業は、契約書と報酬を整えた外資のストリーミング勢力に「根こそぎ持っていかれる」危険がある。

 それでは、米国の産業をモデルとしたら良いのかというと、それは違う。消費の額と英語圏人口を掛け算した米国のエンタメ産業は「大きすぎるために経済的な要素が強すぎる」のであって、いくら契約書が厳密で、クリエーターにも多額の使用料が入るからと言って理想にはならない。

 むしろ、米国流の場合に「カネのためなら思い切って改変」という傾向が強すぎるのが実情だ。むしろ、欧州圏の方が「コアにある哲学の映像化」「そのための深い対話や共同作業」などの姿勢では参考になるのではと考えられる。

 いずれにしても、今回は原作者の急死という最悪な結果となったことには、何とも痛恨の思いが否定できない。原作と映像化の間に横たわる構造的な難しさを思うと、故人の抱えた苦しみは想像を絶するものであったに違いない。

 そんな中で、原作が至上であり、映像化における改変は排除すべきなのかというと、それだけでは問題の解決にはならないのも事実だ。その意味で、今回の問題を契機に、より現実的でより精緻な議論が深まることを願わずにはいられない。

   
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