2024年12月22日(日)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2024年2月3日

 漫画や小説を実写化する場合に、原作との間にどうしても違いが発生する。この問題は以前から多くの原作者を苦しめてきた。同様の問題は、米国でも日常茶飯であり、多くの作品が映像化されている作家のスティーブン・キング氏の場合などは、数多くのトラブルを経験したことが知られている。

(al_la/JadeThaiCatwalk/gettyimages)

 今回報道された、TVドラマ『セクシー田中さん』(原題も同じ)に関する原作漫画家の急死という事件は、最悪の結果となる中ではあるが、この問題に関する鋭い問題提起となっていることは否定できない。

原作者と脚本家がそれぞれ持った苦しみ

 原作者が追い詰められた原因だが、一連の報道を総合すると、次のような流れが考えられる。まず、全10話のドラマの結末部分(第9話、第10話)について、原作者の納得できない脚本で進行するのを避けるために、原作者が脚本家に代わって書いた脚本が採用されたようだ。

 一番の問題は、原作が完成していないまま映像化が進められたことであった。ドラマが終盤に差し掛かった中で、当初の脚本家が用意した筋書きが映像化されると、原作者の意図が十分に反映しない(仮に50%としておく)結末が映像化されてしまう状況となったのではないか。そうすると、漫画の原作が完結する際に、原作者の意図通り100%で書くと「ドラマから入ってきたファン」は落胆してしまう。それでも良いという考えもあるかもしれないが、誠実な原作者は結末部分においてもドラマと原作のズレを最少にしたかったのであろう。

 そこで同時並行で書くべき漫画の結末を意識すると、ドラマについても自分で結末部分の脚本を書くしかない、そうした状況に追い詰められた可能性がある。その上で、自分で書くにしても、ドラマの脚本を原作漫画の世界観100%反映することはできなかったのだと思われる。理由は、後述するように「漫画とドラマ化には異なった条件がある」ということがあり、さらには、部分的に原作を改変して進んできた途中までのドラマの内容(仮に原作と比較して50%とする)との整合性を取る必要もある、という絶対的な条件もあったのではないだろうか。

 従って、結果的に自分で書いたにしても、ドラマの結末部分は原作者の理想や、既に発表されていた原作漫画のクオリティと比較すると70%程度のものになったのだと考えられる。ドラマはそれで終わったにしても、同時並行で進めていた漫画も完結させなくてはならない。その場合に、ドラマの結末とは全く別に、公表済の原作のクオリティ(仮に100%のもの)を維持した結末の漫画を公表しては、ドラマとはズレが出てしまうことになる。

 だからといって、原作も70%に落としてドラマと整合性を取ると、漫画としては最初からの一貫性が消えてしまう。そこで85%程度を考えたのかもしれないが、その辺りの判断にはクリエーターとして壮絶な苦しみがあった可能性がある。


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