日本の政治指導者は圧倒的に男性が多く、私には固定観念にとらわれているように見える。彼らの根底には「ぶれないことが良い指導者」という考え方があるのではないか。もちろん、ぶれないことも必要だが、それだけでは軌道修正が必要な場面で融通が利かないことがある。一方、コロナ禍においてドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相、台湾の蔡英文総統などの女性指導者は、エンパシーを働かせて苦しむ市井の人々の靴を履いて対応し、国民にメッセージを送り続け、支持も高かった。
固定観念にとらわれない女性の指導者を増やすことは、より多くの、より多様な人々の声を拾い上げることにもつながる。それは、男性女性双方にとっても、より良い社会のはずだ。
ブレイディ 私は時折、日本の働く女性たちと座談会をすることがある。彼女たちは私たちの世代と違い、「むかつく」とは直接言わず「モヤッとしている」などの表現を使い、会社や上司の不満を述べる。まさに「愚痴会」である。ただ、私は「革命(や変化)は愚痴から始まる」と本気で思っている。日本人は愚痴をこぼさないことを美徳だと思っているかもしれないが、人間は話しながら、あるいは愚痴を言い合う中から、自分とは何か、つまり、「自分の靴」の形が見えてくることがあるし、自分たちが抱える問題に共通性があることにも気づける。
人々の顔色や状態を見ながらケアするエッセンシャルワーカーの中には、エンパシーが育ちすぎている人がいる。日本の女性は特にその傾向が強いのではないかと思う。だからアイスランドのようなストは「迷惑をかけてしまう」と思う人が多いのではないか。ただし、私の住んでいる英国では国民の間で、ストを支持する伝統があり、教育の中でも自分の意見を主張する方法が教えられている。エッセンシャルワーカーの人たちが物価高などで生活苦になることを心配する国民も多い。
為政者や組織の上の立場にいる人間からすれば、下の人たちの抵抗が無ければ都合がいい。日本人は「従順である」「波風立てない」ことが処世術になっている風潮がある。黙っているだけでは女性の地位向上はおろか、日本という国自体が沈む一方ではないかと心配している。次世代のリーダーは、こうした「下からの抵抗」をする人々の中から現れてくるのかもしれない。