対談

2015年4月13日

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里山と権力

久松:最近「里山」が賞賛されているじゃないですか。共有地としての雑木林を管理すると、そこからエネルギーも得られるし、落ち葉で堆肥も作れる。すごく美しいシステムに聞こえるんだけど、すごく力関係が生まれやすいシステムでもある。長塚節の『土』(新潮文庫)を読んでも、当時の学究心の高い「篤農」といわれた人とそうではない「駄農」と呼ばれた人の違いって、いち早く山に入って権利を握ったかどうかの違いのように思えるんです。手放しの里山礼賛は「人間」を見ていない気がします。農耕がタテ社会とつながりやすいということを見ても、どういう経済環境に置かれたかで学ぶ意欲も行動も決まることがよくわかる。

丸山康司さん

丸山:そこは難しいところで、篤農家の「権力」は必ずしも属人的ではないんですよね。あくまでも権利は「イエ」に属し、長子相続が基本で、ダメなら婿養子を取る。そこでは婿養子を決める人、会社でいえば専務取締役に当たるお嫁さんが、決定的に重要な人材になるんです。次の専務=嫁を見つけてくるのも、現在の専務の仕事ですから、母系で見るとつながりが見えてくる社会で、単にイエのエゴだけでは成り立たないんです。

久松:それはわかります。尊属を内包している社会で、それを壊したのが農地解放なんですね。

丸山:そうだと思いますね。篤農家は権力も持っていたんだけど、権力は地域全体の意思を反映するために行使されないと維持されない。どっちも断絶しちゃったわけですよね。

久松:ただしその意思決定は固定的な身分社会でなされるものだった。民主的な意思決定プロセスが必ずしも環境持続性を担保しないというのは、かなり大事な観点ですよね。

丸山:それはそうですね。

久松:農地解放の功罪は、研究者の方々にしっかりと検証してもらいたいんですよ。かつては農業者と他産業従事者の所得格差があったんだけど、兼業農家はサラリーマン所得もあるから、格差は1960年代には解消しています。すでに貧富の解消という目的は失われてしまったのに、農業者への優遇措置は残ってしまった。フィリピンなんかは農地解放がうまくいかずに身分社会が残ってしまったんだけど、農業資源の保護という観点ではうまくいっている部分もある。身分社会を肯定するわけではなくて、メリットとデメリットを比較する必要があると思うんです。

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