チャイナ・ウォッチャーの視点

2015年4月24日

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平野 聡 (ひらの・さとし)

東京大学大学院法学政治学研究科教授

1970年、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授。アジア政治外交史担当。著書に『大新帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社)、サントリー学芸賞を受賞した『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会)がある。

 とりあえず、原田・石井両氏の論考、ならびに中国側が挙げる史料のいくつかに目を通してみると、当時の史料が尖閣について語る内容と、それゆえの中国側主張の問題点として、以下の点を挙げうる。

* 確かに「釣魚嶼」という地名は漢文史料に出て来る。明清の海防書では、はるか沖の小島として記載される。福州と那覇の間の羅針盤操作指南でも、地図とともに記載されている。
* しかし、それはあくまで「知っている」という範囲を超えない。明清の側は東シナ海の荒波を越える遠洋航海技術に乏しいため、琉球側が派遣した熟練の船員に頼らなければ航海はままならなかった。したがって、たとえ記録があるとしても、島を利用し活用していたのは琉球人ということになる。
* 海の色が故郷と結びつく発想は古今どこにでもある。しかし、流動的な潮目を以て国境線とするという認識は安定的なものなのか。史料の中には、そもそも「黒水溝」など存在しないと断言する記録(たとえば清代・李鼎元の冊封使録)もある。羅針盤指南を兼ねた地図は、単に航海中現れる島を並べたのみで、明確な国境線は引かれていない。
* そもそも明代において、「釣魚嶼」と同列に表記されている「鶏籠嶼」すなわち台湾は、明の支配下ではない。
* 鄭舜功『日本一鑑』の「釣魚嶼=小東」認識は後に引き継がれていない。
* 清代に入りしばらくすると、台湾西部は次第に清の支配下となる。しかし1870年代まで、台湾の北限は鶏籠=基隆の周辺であると公式な地誌に明記され、今日の宜蘭周辺から南の東部(花蓮・台東県)も、支配が及ばない「生蕃」の地であった(だからこそ1874年に日本は台湾出兵し、その費用が清から支払われた)。

 このような史料状況のもと、結局のところ焦点は、果たして明清が本当に「釣魚嶼」を「海防範囲」「台湾の一部分」として位置づけ活用していたのか、ということになる。

「航路標識の島」という認識

 しかし中国の主張は、この点において余り周到ではないように思える。

 中国が「有力な釣魚島主権の根拠」としてとりあげる明代の兵法書『武備志』(茅元儀、1621年)を繙いてみると、「釣魚嶼」という固有名詞にとどまらない論旨の全体から、当時の版図・領域認識、ならびに海防の方法論が浮かび上がってくる。

 本書の「海防一」では「陳銭(上海のすぐ南にある浙江の小島嶼)こそ中国の海山の画処」すなわちボーダーラインであり、ここから外側は倭寇が猖獗する世界であるので、明の戦略的最前線である陳銭を断固として防衛せよと説く。これに対して、はるか沖合での防衛は、突如浅瀬に乗り上げて将兵の命を犠牲にするリスクが大きいのみならず、倭寇(日本人中心の武装交易集団)が常に出没するとも限らず労が大きすぎるため、倭寇は大陸沿岸の海で討ち、上陸させないのが上策であると説く。

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