オトナの教養 週末の一冊

2016年5月8日

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本多カツヒロ (ほんだ・かつひろ)

ライター

1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。ブログ:http://golazo-sala.cocolog-nifty.com/pinga/

ーー人文社会科学者の中ではどんな人達が、どんなことを考えていくのでしょうか?

吉見 ドイツの新カント派がこの問題を焦点化していきますが、その代表的な人物がマックス・ウェーバーです。彼は社会科学にとって最も重要な概念が「価値」であると考えました。また、価値に注目した彼は、合理性には2つあると考えました。それは目的合理性と価値合理性です。彼の古典『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、ピューリタンにとって勤勉に働くこと自体が神への奉仕であり、お金を儲けるために働くのではない、つまり、これは価値合理性ですね。しかし、ピューリタンは贅沢や豪遊を良としないのでお金は貯まり、それを投資に使っていきます。投資が重なることで経済が発展し、資本主義を拡げていく。そして資本主義がシステムとしてまわりはじめると「価値合理性」が見失われ、目的に対して手段と追求しつづける「目的合理性」が社会を覆っていきます。

 20世紀の人文社会科学ではこの種の議論は批判もされていきます。ウェバーは価値を強調しましたが、それに対してマルクス主義は階級のほうが重要だと主張しましたし、フーコーを始めとする構造主義では構造が重要だという議論をします。こうして人文社会科学が考えてきたことは多様ですが、自然科学的な合理性に対し、自明な価値を批判し、新しい複数の価値軸を考える点では一貫しているのです。

 つまり、目的は自明ではないし、階級も、構造も、私たちを無意識のレベルから呪縛している。しかし、その自明性の呪縛から解き放たれるには、創造力を培うことが必要で、それには価値に照準した文系的な知が必要だということはウェバー以来繰り返し論じられてきたことです。決してそれは、ここ2年~3年、あるいは国立大学法人化以降の議論ではないのです。こうした長いスパンの歴史的なビジョンが去年の夏の文系学部論争では著しく欠けていたと思います。

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