いま、なぜ武士道なのか

2010年1月1日

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 一年の計は元旦にあり。だが、時間が経つにつれて日常の忙しさにかまけ、清新な気持ちで立てた誓いを忘れていく人は多いだろう。
江戸時代、武士道を実践する者たちは四つの誓いを常に胸に置いて、迷ったことがあればその誓いに立ち帰っていた。何事も、迷ったときには原点に戻って考えること。そして、そのための指針を持っておくことが大切である。
 
私心を捨てよ、と言われてもなかなかできるものではない。お金が欲しい、地位が欲しい、とこの世は欲しいものだらけである。それを欲という。その欲を去るところに知恵が浮かぶと『葉隠』は説く。

生まれつきによりて、即座に知恵の出る人もあり、退いて枕をわりて案じ出す人もあり。この本を極めて見るに、生まれつきの高下はあれども、四誓願に押し当て、私なく案ずる時、不思議の知恵も出づるなり。皆人、物を深く案ずれば、遠き事も案じ出すやうに思へども、私を根にして案じ廻らし、皆邪知の働きにて、悪事となる事のみなり。愚人の習ひ、私なくなること成りがたし。さりながら、事に臨んで先づその事を差し置き、胸に四誓願を押し立て、私を除きて工夫いたさば、大はづれあるべからず。

その人の生まれつきで、即座に知恵の出てくる人もあれば、あとでじっくり考えてまとめる人もいる。この根本を考えてみるに、生まれつきで優劣はあるけれども、四つの誓いにもとづき、私心を捨てて考えれば、不思議と知恵がわいてくるものである。人はみな慎重に考えさえすれば、難しいことでも考え出せると思っている。しかし、私心をいだいて考えていたのでは、すべてが邪〔よこしま〕な知恵の作用で悪事になってしまう。愚かな人間の常として、私心を去ることは難しい。しかし、ことにみ、ひとまずそのことから離れ、四つの誓いにもとづいて、私心を去る工夫をしたならば、大きな誤りは避けられるものである。

 『葉隠』というと、感情に激して、主観的なことばかりをいっていると思う人も多い。しかし、こんな冷静な意見もあるのである。ことに臨んで、まず客観的にみよ、とは近代の合理主義の思想と同じである。

 へたな考え休むに似たり、などというが、『葉隠』では休むどころではなく、悪事におちいると警告している。ここでは判断の基準をどこにおくかというと、四つの誓いである。古い伝統のある商家などへ行くと、そこには家訓がある。「三井家の家憲」とか、「住友家の家則」、「岩崎家の家憲」とかがある。この家訓というものが、『葉隠』でいう『四つの誓い』である。何かことがあった時は、この家訓におしあてて決断のよりどころとした。こうすれば間違いはないというのである。いまでは社訓、社則になったり綱領になったりしている。どれもその考えるところは同じことである。

 ちなみに、ここでいう四つの誓いとは次のとおりである。

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