2009年3月14日、松尾由利子は神戸市街の救急病院から六甲山を越え、有馬温泉の奥、神戸市外にある老人保健施設に移り住むことになった。生きて還ることなき旅路である。車いすの由利子と、介護タクシーに乗り込んでいると、ソーシャルワーカーの高田美恵が白衣を着替えて駆け付け、「同行します」と言ってくれた。業務外なのに。
幼くして両親と生死別していた筆者は、この時55歳だったが、こうした施設とは縁遠かった。徐々に老いていく親を見ている身であれば、心の準備もできようが、私はいきなり当事者となったのだ。ひとり付き添うのが心細くてたまらず、高田の親切がうれしかった。
一方、施設への入所を強引に進めたのも高田であった。「まだ後見人でも何でもない無資格者ですよ。もうしばらく待ってもらえませんか」と、私は抵抗したのだが、高田に「救急病院という性格上、いつまでも収容できないんです。ふさわしい施設を紹介しますから」と押し切られてしまった。その果ての同道である。
施設へ送る「生還なき旅路」
由利子が、「姥(うば)捨て山」に連れて行かれるような気分を抱くのではないか、嫌がったらどうしよう、と胸ふさがる。ところが現実の由利子は、車窓から見える街並みや木々の緑を楽しみ、顔に笑みを浮かべる。揺れが快適なのか春眠も味わってくれた。高田ともども安堵した。外出好きな伯母にとっては1万250円のドライブとなった。
その2日後の夜、施設のケアマネジャーから電話が鳴った。「夜ベッドで無理に立とうとするんです。転倒が怖くて……。うちは身体拘束できません。『ビールが一番やな』とおっしゃっていますが、飲めるんなら睡眠薬より良いので送ってくれませんか」。缶ビール2ダースを送った。
規則正しい生活と栄養バランスのとれた食事のせいか、車いす頼りだった由利子が立てるようになった。この時期の由利子は、どんどん元気になっていった。歩けるし、トイレも自分で行ける。
すると新たな問題が起きる。4月18日、ケアマネジャーより電話が鳴った。「徘徊がひどくエレベーターで降りて外出しようとするんです。仕方ないので閉鎖棟に移ってもらいます。酒類は禁止です」。かわいそう、楽しみがなくなる。私は、目まぐるしい推移に携帯電話が鳴るのが怖くなってしまった。ジャーナリストでありながら……。