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2018年2月22日

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樫山幸夫 (かしやま・ゆきお)

産經新聞元論説委員長

産經新聞元論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員などを経て、2015年6月から産経新聞社監査役。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

 戦前日本における最大のクーデター、「2・26事件」。 映画や小説で何度となく取り上げられてきたが、ことしで82年が過ぎ、すでに〝歴史〟の範疇に入ったというべきだろう。その事件を伝える重要な舞台のひとつが、いま大きく姿を変えようとしている。

 東京・九段の九段会館。昭和11年(1936年)の事件当時、「軍人会館」と呼ばれ、鎮圧の本拠「戒厳司令部」が置かれた。その由緒ある建物は、戦後も形を変えて利用され続けてきたが、東日本大震災で死者を出した後は〝廃墟〟となっていた。来月、国とデベロッパーが合意書を締結し、近代的な高層ビルへの建て替え工事が始まる予定だ。懸念された全面取り壊しは免れ、旧来の会館部分は残される方向だ。しかも、外壁だけを残す〝腰巻き〟スタイルとは異なり、使用が継続されるという。2・26事件のゆかりの場所が次々に姿を消していく中、「戒厳司令部」の存続は歴史的にも意義は大きい。

完成予想のイメージ

重厚な「帝冠様式」

 「軍人会館」は、昭和9年(1934年)に、在郷軍人の福利厚生を目的に建設された。屋根に〝天守閣〟をのせた「帝冠様式」と呼ばれる独特の様式は、当時の流行だった。愛知県庁、旧満州国の首都、新京(現長春)の国務院ビル、関東軍司令部などにもこの手法が取り入れられている。外壁だけでなく内部も含め、その絢爛、重厚さは、昨今の安普請の建物とは比較にならない。

 新ビル建設を含めた再開発を手掛ける東急不動産によると、靖国通り沿いの正面玄関、〝天守閣〟を頂く北東側の塔屋、内堀通りに面した出入り口や南東側の塔屋などは保存される見通しという。外壁だけでなく、荘重な玄関ホール、2階、3階の会議室なども残され、これまで同様、様々な目的に供される予定だ。

数々のドラマ生んだ鎮圧の本拠地

 「2・26」事件では、陸軍省、参謀本部、警視庁などの重要官庁が直後から反乱軍によって占拠されてしまったため、軍首脳部はとりあえず、ここ「軍人会館」に軍の中枢を移し、あわせて、戒厳令を執行する本拠とした。「戒厳司令部」と大きく書かれた標札の前で、銃剣をもつ兵士が警備に立つ写真を教科書や参考書で見たことがあるだろう。あれこそが、このビルだ。

 2・26事件については、多くの書物、記録があるので、いまさら触れる必要はなかろうが、29日の終息までの4日間、ここを舞台に数々のドラマが展開された。

 鎮圧か「維新の大詔」かー。討伐派の杉山元・参謀次長と決起部隊に同情的な香椎浩平・戒厳司令官との息詰まる応酬。

 満州事変の立役者であり、「世界最終戦論」の著者として知られる石原莞爾大佐(後中将)が参謀本部の一課長でありながら、軍上層部を鎮圧の方向にリードし、その名が喧伝されたのもここからだった。

 決起部隊に無血帰順をよびかける哀調を帯びた「兵に告ぐ」のラジオ放送は、司令部にいた陸軍省新聞班の将校が独断で原稿を書き上げ、館内の臨時スタジオに詰めていた東京放送局(現NHK)の中村茂アナウンサーがぶっつけ本番でマイクに向かった。

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