2024年5月19日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年8月27日

 ドラマでは「浅井長政につく」などと一時的に迷っていた家康だが、たしかにそれで信長を討てば朝倉氏とも和解し、浅井・朝倉領となった美濃を経由する越前交易も実現したかも知れないが、それでは旧態依然の関所運営によって得られる利益は限定的だ。「あくまで朝倉を滅ぼさねば美味くはないのだわ」と勘定高い家康なら判断したに違いない。

 以上はあくまで想像に過ぎない話だが、のち天下を取った家康はすぐさま次男の結城秀康を越前68万石の太守に就けている。いかに彼がこの土地に執着していたか、ということだ。

三方ヶ原の戦いの〝実際〟

 結局、信長と家康は姉川の戦いで勝利を得たものの、浅井長政を討ち取ることはできず、ましてや越前に攻め込むこともできなかった。

 信長と浅井・朝倉の戦いはこのあと3年にわたって続く。

三方ヶ原の戦いの舞台となった三方ヶ原辺から、南の浜松城を望む

 その間、家康は家康でとんでもない目に遭っていた。武田信玄との関係が決裂し、元亀3年(1572年)に武田軍が徳川領に侵攻して来たのだ。ドラマでは浜松城に籠もった家康たちは信玄が岡崎城を目指すと考え「そうさせてはならじ」と出撃していたが、本当のところはどうだったのだろうか。

 史料によっては、信長から「籠城したままじっとしていろ。決して出て戦うな」と言われたものの、「自分の枕元を押し通られて黙っているくらいなら武士をやめる」と勇ましく宣言し、決戦を決意したとしているものもある。これなら格好良いのだが、なにしろ信長の意に沿う家康のこと、不自然な気がしないでもない。

【参考文献】
『朝野旧聞ほう稿』(汲古書院)
『戦国大名の経済学』(川戸貴史、講談社現代新書)
『徳川家康と武田信玄』(平山優、角川選書)
『埼玉県史料・石川正西聞見集』
『信長公記』(角川文庫)
『賃金の日本史』(高島正憲、吉川弘文館)
連載「戦国武将のマネー術」の過去の記事はこちら。 

   
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