2024年4月27日(土)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2015年6月25日

 「明日、8時半に寮の応接室に来てくれないか?」

 電話の向こうの2軍マネージャーは、特に内容を明かすことなく、電話を切った。「寮の食事のことに関して、球団と話し合いをするのだろう」。

関屋智義(Tomoyoshi Sekiya)
横浜ベイスターズ、福岡ダイエーホークス1979年愛知県名古屋市生まれ。愛知高校から97年ドラフト3位で投手として横浜ベイスターズに入団。2002年戦力外通告を受けて、福岡ダイエーホークスに入団。03年再び戦力外通告を受けて引退。自動車ディーラー、芸能プロダクション等を経て、伝導機器メーカーのニッセイに勤務。二児の父。 (写真:小平尚典)

 当時、寮長を務めていた関屋は、以前から寮の「冷えたご飯」の改善について、球団に要望を出していた。その話だろう、特に気にも留めず、同僚と食事に出かけた。

 翌朝8時半、関屋は寮の応接室のドアを開けた。そこには入団会見のときに一度だけ見たことのある、かろうじて名前だけは知っている球団職員が座っていた。

 ─戦力外通告だった。

 関屋智義。愛知高等学校から、1997年に横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)からドラフト3位指名を受けて入団。将来の主力投手として当時の権藤博監督に期待され、3年目にはオープン戦の開幕投手を務めた。しかし、度重なる怪我により本来の力を発揮できず、2002年の9月、野手に転向。それからわずか1カ月。野手として本格的に始動していこうと意気込んでいた矢先の、「クビ」であった。

 「頭が真っ白になった。本当に突然だったし、意味がわからなかった」

 受け入れたくない現実。だが、受け入れる以外に選択肢はない。関屋は複数球団の入団テストを受け、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)でプレーすることが決まった。23歳と若く、野手転向後すぐクビになったということに配慮し、当時横浜ベイスターズの2軍監督であった日野茂が、ダイエーとの間に入ってくれた。

 採ってくれた球団に恩を返したいという思いを胸に、関屋は朝から晩まで泥にまみれた。その甲斐あって、徐々に試合に出られるようになる。8月の対広島東洋カープ戦、関屋はスタメンに名を連ね、野手転向後初めて3安打、猛打賞を放つ。2塁ランナーだった関屋は、次打者のヒットでホームを狙う。関屋の視界には、高くそれたボールを取りに行くキャッチャーが見えていた。ホームに滑り込む関屋の右足に、キャッチャーが上から乗りかかった。

 「グシャッ」


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