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2016年8月15日

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根本敬 (ねもと けい)

上智大学総合グローバル学部教授

1957年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。同大学院比較文化研究科博士後期課程中退。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授等を経て、現在、上智大学総合グローバル学部教授。専攻はビルマ近現代史。著書に『抵抗と協力のはざま――近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(同、2010年)、『ビルマ独立への道――バモオ博士とアウンサン将軍』(彩流社、2012年)、『物語 ビルマの歴史――王朝時代から現代まで』(中公新書、2014年)、『アウンサンスーチーのビルマ――民主化と国民和解への道』(岩波書店、2015年)など。

 毎年8月、日本では戦争と平和について考える機会が増える。そのとき話題になるのは広島・長崎の原爆被害であり、ソ連の参戦、そしてポツダム宣言受諾を述べる昭和天皇の声が流れた8月15日の終戦(敗戦)のことである。

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“アジア・太平洋戦争”の実相

 これらをもたらした戦争はふつう「太平洋戦争」と呼ばれ、日本国民の記憶としては「米国との無謀な戦い」というイメージが圧倒的に強い。しかし、この戦争を「真珠湾奇襲で始まり、広島・長崎の原爆で終わった日米戦争」としてとらえることは、戦争の一面しかとらえておらず、正確とはいいきれない。

 そもそも1941年12月8日の真珠湾奇襲の約1時間前に、日本軍はシンガポール攻略を目指してマレー半島のコタバルに上陸を開始している。この事実こそが重要である。

 日本は当時、東南アジア全域の軍事占領を目指したのであり、米国を倒しワシントンDCに日の丸を掲げるために戦争をしかけたわけではない。東南アジアに侵攻するにあたって米国の太平洋艦隊にやって来られると面倒なので、その本拠地であるハワイ真珠湾を同時に奇襲したのである。戦争の目的は東南アジアの軍事占領にあったことを忘れてはならない。

 しかし、その後、米軍の激しい反撃を受け、甚大な被害を受けたため、戦後の日本ではこの戦争が「米国との無謀な戦い」として記憶されるようになり、戦争の記憶から東南アジア軍事侵攻と占領の部分がほとんど抜け落ちてしまった。この戦争は日米間の戦争としてイメージされやすい「太平洋戦争」ではなく、戦場としての東南アジアをしっかり記憶の中に位置づける「アジア・太平洋戦争」と呼んだほうがより正確だといえよう。また、この呼び方を用いたほうが、37年から本格化し45年まで継続した日中戦争についても併せて記憶に含みやすくなる。

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