三つめの理由は、戦後の日本が50年代前半まで極端な食糧不足で苦しんでいたとき、まだ外交関係も結ばれていないなか、独立したばかりのミャンマーが入札に基づかない特別な配慮を通じて、コメを日本に安く輸出してくれた事実に基づく。のちにコメの自給が達成できるようになると、日本はミャンマー米を冷たく扱うようになったが、それでも困っているときにコメを売ってくれたミャンマーに対する「恩」を語る日本人は少なくなかった。
しかし、こうした事例を基にした「ミャンマー親日」言説は、次に説明する日本占領期に起きたネガティヴな諸事実を前にした場合、冷静にとらえなおす必要が生じよう。ミャンマー(人)が「反日」でないことは間違いないにしても、一般に流布する「親日」説は、ミャンマーの人々の歴史認識を軽視した表面的なものであることを知るべきである。
日本ではあまり知られていない抗日闘争の歴史
現在のミャンマーでは3月27日を「国軍記念日」として盛大に祝う。この日はしかし、戦時中の抗日蜂起を起源に有している。ビルマ国軍(先述のビルマ独立義勇軍BIAが日本軍監視の下で発展したもの)が、日本軍に一斉蜂起した日が45年の3月27日なのである。48年1月の独立以来、70年代半ばまで「ファシスト打倒の日」(抗日記念日)と呼ばれ、その後、抗日闘争の武力的中核を担った国軍を英雄化すべく、現在の「国軍記念日」に呼称が変更されている。
ミャンマー人ナショナリストたちが戦時中に日本軍へ協力姿勢をとったことは前述したとおりだが、一方で、占領下における一般の人々の生活環境のほうは極端に悪化した。連合軍の空襲、ハイパーインフレーションと物不足、流通の悪化による一部地域での飢饉の発生、日本軍への労働力供出、一部将兵によるミャンマー人に対する蛮行、などが様々な記録や回想録に記されている。43年8月に日本から与えられた「独立」も、主権国家とはいえない中途半端なもので、30万人近い日本軍はそのまま駐留し、日本側が結ばせた秘密協定により戦争が終わるまで国内での軍事行動の自由を認められていた。
こうした状況への反発から、44年8月以降、反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)という地下組織を軸に、密かに抗日準備が進められることになる。日本軍の戦局が悪化するなか、反攻してくる英軍の認知を受けることなく、45年3月27日には自力で蜂起するに至る。アウンサンが指導した抗日闘争である。まさに対日協力から抗日への劇的な姿勢転換だったといえる。