チャイナ・ウォッチャーの視点

2017年3月1日

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小原凡司 (おはら・ぼんじ)

東京財団研究員・元駐中国防衛駐在官

1963年生まれ。85年防衛大学校卒業、98年筑波大学大学院修士課程修了。駐中国防衛駐在官(海軍武官)、防衛省海上幕僚監部情報班長、海上自衛隊第21航空隊司令などを歴任。IHS Jane’sを経て、13年1月より現職。

「弱者の選択」と「非合理の合理性」

 中国の宇宙開発が軍事と一体であることは、その歴史を見れば、一目瞭然である。中国は、1956年、国防部第5研究院を設立し、宇宙事業を開始した。中国の宇宙開発は、人民解放軍の機関が始めたのだ。

 中国は、1960年2月19日に、初の宇宙探査ロケット(T-7M)を発射し、同年11月5日には、東風1号(DF-1)の初の試験飛行を行った。因みに、DF-1は、ソ連製R-1(SS-2)ミサイルのコピーである。

 これら発射試験を見れば、ロケットとミサイルの開発がリンクしていることが理解できる。これら試験の成功を受けて、1961年8月20日、毛沢東主席や周恩来総理らから成る党中央は、「『両弾』研製」に同意した。『両弾』とは、核兵器とそれを運搬するミサイルのことを指している。核弾頭を搭載した弾道ミサイルを開発しろと命じたのだ。

 当時の中国は、現在の北朝鮮同様、「弱者の選択」として、大国を抑止できる核兵器の開発に国内資源を投入していた。また、「非合理の合理性」を用いて、他国を恫喝するかのようなことも行っている。「非合理の合理性」とは、故意に、相手に「何をするかわからない」と思わせることによって、恐れさせることをいう。

 1957年11月に、ソ連で開催された世界の共産党及び労働党の大会において、毛沢東が、「核戦争が起こったら、全世界27億人の半数が死に半数が残るという。中国6億人の半分が死んでも3億人が残るのだから、何が大したことがあろうか」と発言し、ソ連を含む他の社会主義国の指導者たちを震撼させたのは、あまりにも有名な話だ。

 中国にとって、「非合理の合理性」を有効にするためにも、核弾頭をワシントンD.C.やモスクワに運搬する手段を有することは必須だったのである。1964年6月29日、中国は、自主開発した「東風2号(DF-2)」の発射試験に成功し、同時に核弾頭の小型化に努め、1966年10月27日、「両弾結合」と称して、核弾頭を搭載したDF-2の発射試験を行った。

 これを受けて、1967年5月13日、国家計画委員会(現在の国家発展計画委員会)が、地球観測衛星システムの計画を打ち出した。これら衛星を軌道に乗せるために必要だったのは、推進力の大きいロケットである。1970年1月30日に、中国初の中距離弾道ミサイル「東風4号(DF-4)」の発射試験に成功すると、同年4月24日には、「長征1号」ロケットが、初の人工衛星「東方紅1号」を搭載して打ち上げられた。

 このように、中国の宇宙開発は、正に、弾道ミサイルと核弾頭の開発と軌を一にして行われてきたのである。そして、1999年9月18日、中国共産党中央、国務院、中央軍事委員会、全人代が、「両弾一星」の研究開発において功績のあった者を表彰した。「両弾一星」の「一星」は、衛星のことを指している。

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