最近、TV番組の実験データ捏造問題が大きな話題となりました。納豆をダイエット食材として放映した影響で、全国のスーパーで納豆が売切れになったそうですが、これは実験データの捏造によるもので、納豆にダイエット効果があるわけではありません。また、水に言葉をかけると、その言葉に応じて水の結晶が形を変えるという「水からの伝言」は、小学校の道徳の教材に使われたそうですが、これも科学的な根拠のある話ではありません。
こうした、一見、科学めかしているけれども、実は科学とはなんの関わりもないものを「エセ科学」といいます。人はそれがいかにも「科学らしく」見えると、なぜたやすく信じてしまうのでしょうか。
こうしたことは、科学的(合理的)思考の欠如であるといえますが、それだけが理由ではありません。それを、松井教授は「わかる」と「納得する」の違いによるものだ、と主張します。「納得する」というのは、つまるところ、個人が自分自身の感情で割り切れるかどうか、という問題です。「エセ科学」も「納得する」世界の話であって、「わかる」「わからない」とは関係ない、「納得」できればいいというだけのことです。
では「わかる」とは何か? なぜ、「わかる」ことが大事なのか? そして、そもそも人はこの世のあらゆる出来事を「わかる」ことができるのか?
この問題提起をめぐって、自然科学者の松井孝典、哲学者の鷲田清一、宗教学者の山折哲雄が、延々三時間以上におよぶ大激論を繰り広げました。二十一世紀の日本、いや、世界において、もっとも真剣に論じられなければならない大きな問題が、この《「わかる」と「納得する」》という問題なのです。