東大教授 浜野保樹のメディア対談録

2010年12月30日

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浜野保樹 (はまの・やすき)

東京大学大学院新領域創成科学研究科教授

1951年生まれ。工学博士。コンテンツ産業や制作に関する研究開発に従事する。主な著書に『大系 黒澤明』(講談社)『偽りの民主主義』(角川書店)『表現のビジネス』(東京大学出版会)などがある。(財)黒澤明文化振興財団理事、文化庁メディア芸術祭運営委員ほか。

浜野保樹教授

 その映画で知り合ったいろんな方が映画以外にCMの仕事をしたりしていて。撮影で富士山に行くんだけど付き合え、って言われちゃあ、ついていって、結構僕自身バイト代が入ってくるようになりました。

 いよいよ僕も卒業ってころは、五所先生も加減を悪くされていて、病院に入院されつつ週末だけ自宅に帰るというような暮らしをされてました。

 「そろそろ就職なんですが、どなたか映画界の人をご紹介いただけませんか」って切り出してみたら、「ちょっと来い」って言われて、喫茶店に連れて行かれ、そこで「映画はやめなさい。テレビに行くといい」って言われたんです。そして「いま民放連の会長局はどこの局ですか」って聞かれたんですが、僕は知らなかった。

 調べたらフジテレビでした。それを申し上げたら、「監督協会理事長として、紹介状は書くよ」、とおっしゃって、ほんとにフジテレビ宛の紹介状を書いてくれました。

成績60人中58番で就職をキメる

亀山 ところが、テレビ局をそれで受けようと思ったら、当時は学校推薦枠っていうのがあった。

 フジテレビには、早稲田から60人しか願書を出せない仕組みになっていた。オープンだったのはTBSだけ。あとはどこも学校推薦枠があった。映画会社は、採用ゼロですしね。

 だとすると、僕にとってはなんとしてでも早稲田の60人枠に潜り込むしか選択肢がない。

 もともと映画のバイトなんかしてるくらいなんで、大学なんて行ってない。成績は、ほかの志願者に比べてまるで話にならない。

 そのときは就職課に日参です。「自分は絶対フジテレビに入るんだ、ダイジョブだからオレを60人の中に入れろ」って、あれが最初のプロデュースですね、思い返せば。

 知ってる人の名前バンバン出しながら、自分を売り込んだわけですから。就職課の人が映画好きだったらいいのになあ、と思った期待は外れるのだけど、「映画監督協会の理事長さんです」って言ったら「へぇえ」とは反応してくれるという、そんなやり取りを随分やりました。

 忘れもしない、「あなた願書出していい」って言われて、出願番号もらったら、きれーに成績順でね、その番号が。僕は60人中58番。

 受けに行ったら、出身校ごとに整理番号が与えられていて、ここから前が早稲田だなというそのぎりぎりのところに僕がいる。僕の後ろ2人が、きっと早稲田。その先は、聞いたら「オレ慶應」とか言ってました。慶應も60人だった。

 で、なんと、58番、結果として僕と、59番、60番、全員フジテレビ入りましたね。1番、2番、3番は落ちてました。ざまー見ろ成績じゃないんだよ、マスコミはって思いました(笑)。

 いまと違って、就職活動解禁は大学4年の10月で、マスコミはさらにその後11月だった。一般企業に行く気はさらさらなかったし、そのフジを逃したら後はないわけでしょう。落ちたら映画のバイトでもしながらでも、そこそこ食べていくだけならできるんじゃないか、ぐらいの気持ちでした。

 制作進行でもなんでも、テレビの2時間ドラマづくりとか、やってるうちにどこかへ潜り込めてCMあたりを手始めにやっていけば、いつか監督になれるだろうと、いま思えばむちゃくちゃに甘い考えだった。

浜野 当時の編成局局長は大抜擢で日枝さん(日枝久、フジ・メディア・ホールディングス会長、フジテレビジョン会長)だったんでしょう。

亀山 そうです。その第一期新入社員が僕ですよ。

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