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スタートは映画監督の書生から
浜野保樹(東京大学大学院・新領域創成科学研究科教授) 早稲田の学生だった頃は、やっぱり映画をやろう、と?
亀山千広(フジテレビジョン取締役、映画事業局長) そりゃもう。監督になりたかったですね。
浜野 映画会社はその頃、募集なんてしてないでしょ。
亀山 全く。こりゃツテを辿って潜り込むしかないなって。
実家が静岡県三島市だったんですが、最晩年の五所平之助監督が、あったかい三島を終の棲家としておられた。そこが実家から500mくらいのところだったんです。当時、映画監督協会の理事長でした。
浜野 戦後だと、溝口健二、小津安二郎ときて、3代目が五所監督ですね(理事長在任は1964~80年)。
亀山 それで、『お化け煙突の世界―映画監督五所平之助の人と仕事』(ノーベル書房、1977年)という、佐藤忠男さんが編集された本がちょうど出たとこで、その本持って「サインしてください」って、五所邸に行ったんですよ。誰か映画関係の人を紹介してもらおうかな、って。
でもなかなか会ってもらえませんでした。だから3日間ぐらい、その本もって先生の帰りを家の前で待つことにして。3日目ぐらいに、「それじゃちょっと来い」って上げられて。
映画の話でもしてくれるのかと思ったら、2階へ連れて行かれて、「この部屋片付けろ」っていうんです。書斎みたいな部屋で、まあそれは本が山積み。そこから書生みたいなことが始まったんです。
それからは、夏休みなんかで実家にいるときは、夕方、「なんか御用はございますか」と訪ねにいく。犬に餌やるとか、そんなことしました。
そのころ、というと77年、78年くらい、日本映画どん底の時代でしたよね。五所監督にもうあと1作っていう声もあったみたいなのですが、到底実現できる環境じゃなかった。
でも周りに、五所作品の脚色をやってこられた長谷部慶次さん(脚本家)や、堀江英夫さんといった、ブレーンがおられた。その堀江さんのところにも、カネがなくなると「メシ食わしてください」って訪ねに行ったりしてたんですね。
わらしべ長者的に縁がつながった
亀山 そんな状況で、「CMの仕事だけど、バイトやるか?」なんてお話を時々いただいていた中、たまたま1本、当時、家城巳代治さんにとって遺作になる作品ですけど「わが青春のイレブン」(1979年公開)というサッカー映画をつくる話が出た。
家城さんの助監督をされていた降旗康男さんが監督して、家城さんの脚本で。東映の製作・配給でね。当時の東映の芸風とはだいぶ違ったんだけど、降旗さんて言えば、78年に公開の、高倉健さんが主役をやった「冬の華」ってヤクザの生き様描いた映画が大好きだったんですね。
それ、やってみるかってお話をいただいたんで、「そりゃもう、ぜひ」。そんないきさつで、なーんにも知らなかった学生の僕が、制作進行やりましたね、そのサッカー映画の。
言い方を変えると、当時の邦画界ってそのくらい酷かったんですよ。学生のただのアルバイトが、制作進行やったんですから。弁当の手配から何から見よう見まねで。
高校生が主人公の映画ですから、エキストラ集めるのも僕の仕事で、早稲田に行って人集めをしたり。1回エキストラで出て、3000円くらいのバイトです。