明治の反知性主義が見た中国

2018年11月19日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

高杉らを乗せた千歳丸による上海訪問から10年を経た明治5(1872)年、明治政府の外務卿・福島種臣は日清修好条規批准書交換のために清国に旅発つ。両国の国交が開かれたことにより、伊藤博文を筆頭とする政治家、外交官、軍人、学者、文人、経済人など多彩な明治人が大陸を訪れ様々な思いを綴っている。彼らの多くは“表玄関”から清国を訪れ、外交・経済・文化などを中心に“大上段”から清国を捉え、両国関係を論じた。

日清修好条規批准書交換は、じつは名も無き市井の人々にも大陸旅行の機会を与えたのである。それまで書物でしか知ることのなかった「中華」を、彼らは自ら皮膚感覚で捉え書き留めようと努めた。

かりに前者を清国理解における知性主義とでも表現するなら、後者は反知性主義と位置づけられるだろうか。これまで知性主義による清国理解は数多く論じられてきたが、反知性主義のそれにはあまり接したことがない。

歴史教科書で扱われることなどなかった明治人による反知性主義的清国理解を振り返ることは、あるいは知性主義の“欠陥”を考えるうえでの手助けになるのではないか。それというのも、明治初年から現在まで知性主義に拠って律せられてきた我が国の一連の取り組みが、我が国に必ずしも好結果をもたらさなかったと考えるからである。もちろん反知性主義だからといって、その結論が現在の我が国メディアで喧伝されがちな中国崩壊論に、あるいは無条件の中国礼讃論に行き着くわけでもないことは予め断わっておきたい。

日清戦争(1895年5月30日)写真:MeijiShowa.com/アフロ

※なお原典からの引用に当たっては、漢字、仮名遣いは原文のままに留め、変体仮名は通常の仮名(たとえば「ヿ」は「こと」)に、カタカナはひらがなに改めることを原則としておく。

 岐阜に生まれた長谷川鏡次(明治5=1872年~昭和4=1929年)が台湾に向かったのは明治28(1895)年の年末である。日清戦争勝利の余韻が冷めやらなかったに違いない。

 台湾最南端の恒春に上陸し、台南を経て台北へと向かった。「在島僅々百數十日」の短期間のうえに10月の日本軍による平定直後だったこともあり社会は落ち着いていない。これに言葉の問題が加わる。なにはともあれ台湾は「矇昧野蠻の國」だった。当初の旅行目的である「臺灣材木業視察」が困難を極めたであろうことは想像に難くない。

「臺灣の商業は支那本土と密接の關係を有する」と考えた長谷川は、調査の「完全を期す」ために中国本土旅行を思い立つ。かくて台湾海峡を挟んだ「福州厦門の商況」の視察を明治29年秋に計画したものの、実行されたかは不明だ。

大陸からやってきた移住者たち

 最初に台湾開発に手を染めたのは「天正文禄の頃の原田孫七郎」や「慶長元和の交」の頃の「長崎の豪商濱田彌兵衛」などの日本人であった。だから日清戦争に勝利したことで日本が清国から割譲を受けたのではなく、本来の持ち主に戻った――こう、長谷川は台湾を理解する。日本は改めて台湾開発に臨んだということになるが、瘴癘を極めた自然環境において猛威を振るう「臺灣熱(まらりあ)」は、台湾開発にとっての最大の障害となった。

 元来の台湾住民は「現今の蕃人」であり、「支那人は近時移住したるもの」である。だが、人口構成の上では大陸からの移住者の方が圧倒的に多数派であり、そこで「蕃人」は山間部に逼塞せざるをえなくなる。「化熟」、つまり文明化された「蕃人」は極めて少ない。これに対し「支那人は後年移住し來りしものと雖も其數蕃人に二十陪し」ていることから、今や主客が逆転してしまい大陸からの移住者が台湾住民の大部分を占めるに至った。

「蕃人」は「純粋の生蕃と半化せる熟蕃」に分かれる。「支那人中にも廣東、福州、厦門、泉州等」の出身地の違いがあり、また「生蕃界と熟蕃界」との間に挟まるようにして客家人集落も認められる。

 以上を言い換えるなら、元来から台湾には文明化されていない「生蕃」と半ば文明化された「熟蕃」の2種の原住民が住んでいた。そこに主に福建省南部(=閩南)や広東出身の大量の漢族が新天地を求めて移住してきた。多数の人口を背景に彼らは肥沃な平地を奪い取り、「生蕃」と「熟蕃」を山間高地に追いやってしまう。やがて広東、福建、江西に跨る山間僻地に住んでいた客家もやって来たが、肥沃な平地は先住漢族の主流である閩南出身者が押さえている。そこで誰も住んでいない「生蕃界と熟蕃界」の隙間に空いていた未開地に入植して生きるしかなかった、というわけだ。

 大陸からの漢族の中では広東人は特異な存在で、「他移住民の嫌惡を受くる」。だからといって他の漢族移住者に負けているわけではない。「徃々爭闘を起して戰血を各部落間に流すことあり」。出身地別、つまりは方言の違いによる争いが絶えない。だが大陸からの移住者は共通して「勤儉貯蓄の美風」を失うことなく、たとえ貯えがあろうとも粗末な身なりで過酷な労働も厭わずに日銭稼ぎに勤しむ。台湾という「化外の地」であっても先祖伝来の「勤儉貯蓄の美風」をシッカリと守り、コツコツと貯蓄に励むのであった。但し「鴉片吸引者は此限にあらず」。

 台湾の「陋習」として、長谷川は「鴉片の流行」と「婦人を賣買する」を挙げている。

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