業績が伸び悩む企業と求心力が失われつつある仏教界。両者とも「成長のジレンマ」に陥っていると危惧する大阿闍梨は、今こそ原点に立ちかえり、善い行いを積み重ねる意義を説く。
堂内を埋め尽くす人々の視線が、その人の所作に向けられている。腹の底に響く太鼓の音。澄み渡る般若心経の真言。護摩木が次々と投じられると、炎が昇龍のように立ち上がる。およそ1時間の祈祷の間、誰もが手を合わせ、こうべを垂れる。
仙台駅から車で40分、名湯秋保温泉の近くに慈眼寺はある。この日、月2回実施される護摩祈祷に合わせて全国から老若男女およそ200人が集まった。多くの人が、住職に会いにこの山寺に足を向ける。
その人とは塩沼亮潤師。塩沼師は「大峯千日回峰行大行満大阿闍梨」の称号を持ち、“生き仏”とも敬われている存在だ。
大峯千日回峰行とは、決死の覚悟でのぞむ荒業中の荒行で知られている。それは奈良県吉野にある金峯山寺から大峯山間の山道48km、標高差1300mを9年間にわたって1000日間歩き続けるというもの。総距離は4万8000kmにも達し、地球一周(約4万km)よりも長い。金峯山寺の歴史1300年間で満行者は2人のみだ。どれだけ凄まじい行なのか。
「クマに追いかけられたこともありました。崖が崩れ行く手を阻まれたこともありました。血尿も出ますし、心臓を悪くして、意識が遠のいた時もありました。気候がよく、体調も優れた状態の日などほとんどありません。ひとたび行を始めれば、1日たりとも休むことは許されません。常に自害用の脇差と死出紐を持って歩き、仮に行を断念する時には腹を切るか、首をくくるかの覚悟で日々を送るのです」
ふと、師が指差したそこには、行の494日目に筆を走らせた色紙が置かれていた。清書されたものではない。一部、墨が滲み、字体は乱れている。修行半ばで腹痛と下痢、39度を超える高熱に見舞われた。切腹も覚悟したが、なんとか踏破し、坊に戻った直後の心境を綴ったものだという。《くず湯二杯で四十八キロあるいた おなかがとおり食べてもすぐでてくる 苦しくてないて誰もいない山で… 部屋にかえったら涙がとまらない 体がふるえて よくいってきたものだ》と書かれている。
「徳川家康は三方ヶ原の戦いで敗れた後に、自戒を込めてしかめっ面の自画像を書かせたと言いますが、まさにそれと同じ心境で筆をとりました。こんなところでくじけては“夢”は達成できないと、震える手で、涙を流しながら書いたことが思い出されます」