2024年4月27日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2020年6月3日

(bingfengwu/gettyimages)

 人の死は飽くまでも個人的なものである。だが個人的である死が、時として彼を育み、生きた社会環境、つまり一つの時代の終焉を暗喩することもあるだろう。

 2020年5月26日、香港島のハッピーバレー(跑馬地)に在るサナトリウム・ホスピタル(養和医院)で98年の人生を閉じたスタンレー・ホー(何鴻燊)の死を、内外メディアは挙って「マカオの帝王の死」「マカオのカジノ王の死」と報じた。

 だが一族の家系を遡り、波瀾の生涯を振り返るなら、やはり彼の死は「金の卵を産む鶏」を演じ続け、1世紀半を超える繁栄を謳歌してきた香港に黄昏が迫っていることを告げる晩鐘にも思えてくる。

 スタンレー・ホーは、上海のフランス租界の一角で中国共産党が結党された1921年、上海を遠く離れたイギリス殖民地の香港の超富豪一族に生まれた。共産党イデオロギーの対極にあった環境で生まれ育った彼だったが、その後半生を彩った華麗な企業家人生は不思議なことに共産党政権と歩調を合わせてこそ築かれたのである。

 祖父のホー・フック(何福)の兄に当たるサー・ロバート・ホートン(何東卿)は19世紀末から20世紀前半の英国殖民地行政を支え、“影の総督”として香港における政治・経済活動の全般に亘って圧倒的影響力を揮っていた。香港の超エリートとして、あるいは名誉英国民として、一族は殖民地香港に君臨し栄耀栄華を誇っていたのである。

 中国にとっては「屈辱の近代の起点」でもあるアヘン戦争の結果、1842年にイギリスと清朝間で結ばれた南京条約によって清国から切り離された香港は、イギリス殖民地としての歩みを始めた。

 18世紀半ばにイギリスで起こった産業革命が作り出した大量の綿製品の販路を、マンチェスターの生産業者は膨大な人口を抱える清国に求めた。清国の対外閉鎖体制を軍事力でこじ開け、国際市場に引きずり出し、巨大な消費市場に変質させる。殖民地化した香港を貿易拠点として、マンチェスター産の綿製品を売り込みを狙った。これがアヘン戦争開戦への動機の1つだった。

 殖民地化された香港には、「一攫千金の夢」を胸に抱く野心に充ちた欧州の若者がやって来た。大英帝国の圧倒的軍事力を背景に、彼らは中国にアヘンを売り込み、中国から「苦力」と呼ばれる無資本労働者を海外に送り出す。これが中国南部の名もなき小島を「金の卵を産む鶏」へと飛躍させ、莫大な富を生み出すキッカケだった。

 香港に住み着いた彼らが広東人女性との間で儲けた英中混血児の多くは家庭の外ではイギリス人としての教育を受け、家庭の内では中国人として育てられる。英中両言語を巧みに操り、英中両文化を身に付けた彼らはイギリス商社の買弁(代理商人)に就き、殖民地経営を下支えし、不動産、海運、保険などのビジネスに進出し、やがて香港経済の根幹を握ることになる。

 彼らの子弟は“もう一つの祖国”に送られ英国紳士として育ち、弁護士、医者、学者、企業家となって世界各地に移り住み、一族のネットワークを広げる。娘たちはイギリス人や中国人はもちろん、ユダヤ人やポルトガル人などと結婚し、様々な民族の血が入り混じった大家族に成長を遂げる。

 やがて香港を舞台にして、R・S・エレガントが描いた『DYNASTY 大王朝』(TBSブリタニカ 1981年)のような華麗なる一族――世界の王族と親交を結び、列強首脳と太いパイプを持ち、地球規模に張り巡らした人脈・情報ネットを駆使して国際ビジネスを展開する――が生まれるのであった。

 その頂点に立ったのが、当時の東アジア一円に強固なビジネス・ネットワークを張っていたジャーデン・マセソン商会で総買弁を務めたサー・ロバート・ホートンだった。彼はホー・ダイナスティー(何王朝)の“初代皇帝”として、イギリス殖民地の香港に君臨することになる。

 1927年に香港を訪れた魯迅は、当時の殖民地香港の姿を「中央には幾人かの西洋のご主人サマがいて、若干のおべんちゃら使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群がいる。それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『土地の人(原文は「土人」)』だ」(『而已集』人民出版社 1973年)と綴っている。魯迅が「高等華人」の代表にサー・ロバート・ホートンを思い描いていただろうことは想像に難くない。

 スタンレー・ホーに冠された苗字のホー(何)には香港に君臨した何一族の栄光が鋳込まれているゆえに、彼は香港を代表する企業家の誰にも真似のできないような“由緒正しき血統”を誇っているのだ。単なる「マカオの帝王」「マカオのカジノ王」ではないという強い自負が、彼を支えていたはずだ。たとえ「高等華人」の「高等」に魯迅特有の鋭い皮肉が込められていたとしても、である。


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