2024年5月19日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年10月15日

 家康は4貫文だけの納税を「忠勤の至り」だと褒め、今後も特権を保証し、税額も上げないと約束し、旅の商人の数が回復すれば規定通り5貫文を納めるように、と命じた。

 2軒は4年も前の今川氏との合戦による荒廃と疲弊がまだ回復していない、とでも言い訳したのだろうか。現代でもわざと赤字決算にして減税や免税をしてもらう企業などあるようだが、どうもそういう匂いがしないでもない。

 それでも、家康はそれをあえて受け入れて豪商たちからの支持を固め、将来的に安定した税収を確保するのが得策だ、と判断したのだろう。もうひとつ、「旅客が回復すれば」という以上は、問屋としての税は別にかけられていたとも考えられる。

 また、宇津山城があった入出という土地は湊に出入りする船が多く、栄えている様子を表してその地名になったというから、如何に城の下を多くの船が就航していたかが想像できるだろう。

 その南の吉美(きび)の鷲津には本興寺(日蓮宗)という寺があるが、これは中納言飛鳥井雅が旅の途中で宿泊したほどの大寺院。このシリーズではいつも「大寺院あるところマネーあり」で通して来たが、ここも例外ではない。

 こうして新居だけでなく湖のあちこちで駄賃と関税は発生し、それに応じて徳川家の金蔵が潤っていたのだ。これがすべて信玄のモノになれば、その金額を仮に1億円とすると、家康にとっての損失は1億円ではない。信玄にその金額がまるまる移れば2億円のマイナスだ。彼が浜名湖防衛に懸命になったのももっともだとは思いませんか?

耐え忍んだ成果?

 そんな家康の必死さもあって堀江城はなんとか保たれた。しかし堀江城の北東、本坂道を扼する気賀は、三方ヶ原の戦い直後から長篠の戦いの前までは武田家の支配下に置かれていた。一歩間違えば非常にヤバい状況だったのである。

三方ヶ原古戦場

 有名な家康の「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、別名「しかみ像」(徳川美術館所蔵)は三方ヶ原の戦いでの敗北後に焦燥している家康を描いたと伝えられて来た。最近ではその成立経緯が見直されているが、浜名湖を脅かされた家康はまさにこんな表情だったのではないかと思えてくる。

 三河では2年半後に大賀弥四郎事件という、武田勝頼に内応して家康に謀反しようとした陰謀が発覚するのだが、それもこの大敗以降の経済的・軍事的苦境が影響しているわけで、よくもまぁこの状況から立ち直れたものだとは思う。

 だが、この危機は、家康にとってムダではなかったようだ。戦いの皮切りが石合戦からだったと先ほど書いたが、当時の戦闘ではさほど珍しいものではないとしても、三方ヶ原にはこんな民話がある。


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