この熱き人々

2015年1月15日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 「顧問の先生はすごく厳しい人だったけど、マネージャーを雑用係とは思っていなくて、監督やキャプテンの補佐役として練習を仕切るのはマネージャーだという考えだった。練習の時は、先生がぶち切れる直前にマネージャーが切れてみせる。先生をぶち切れさせないためにね。練習の後のお好み焼き屋や合宿の時には、モノマネやってみんなを笑わせ場を盛り上げる。試合には出られなくても参加している実感ありましたね。笑ってもらうことに快感と自分の価値を見出したんだと思います」

 「ここだ!」というさらなる手ごたえを求めて、大学時代は落語研究会に。

 「声の勝負で人物の使い分けができるって思ってたんですねえ」

 しかし、最初の小噺(こばなし)でいきなり先輩に怒られた。「落語はモノマネじゃない。そんなにリアルに声を変えたら不自然だろう」。そうなのかと、懸命に三遊亭円生を聞いて研究した。

 「聞きすぎて言い回しまで同じになっちゃった(笑)。何にでもすぐに影響されちゃうんですよ」

 特徴をつかみ、それをそのまま、声を楽器のように奏でてしまう。それが自分のキャラクターなのだと気づいた山寺は、自分にとっての「ここだ!」という将来の居場所は声優なんだと設定することができた。

 「マネージャーやって笑いに目覚め、落研に入っていなかったら、今の自分はなかったですね」

ジャンルを超えた表現に挑戦

 間の取り方、笑わせ方、盛り上げ方をバスケットボール部で学び、誰にでもすぐになれてしまうモノマネで怒られた落研で、将来生きたい場所が明確になった。大学卒業後は、俳優養成所で演技の勉強をするために上京。みんなが就職というゴールにたどり着いたころ、夢を追って、第一歩の具体的なスタートを切ったわけだ。

 「それもほとんどの人が叶わない夢ですからね。両親にはとりあえずやらせてほしいって頼みました。父は、30歳までに食べていけるようになれって。友だちに俳優になるって言うと一斉に『えーっ、無理だろう』と驚くけど、声優になりたいって言うとみんな納得してくれたものだから、夢が叶うんじゃないかと何となく思ってました」

 養成所に通い始めたころ、声優のコースはまだなく、俳優としての発声、アクション、ダンス、声楽などさまざまな勉強をしていた山寺に、最初に来たのはアニメの仕事だったという。

 「30歳前に食べられるようになりましたから、主役の声をやるまでは時間がかかりましたけれど、仕事は順調だったと思います」

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