静岡県浜松市の北部、北遠エリアには、豊かな自然が残り、日本の原風景とも言うべき景色が広がっている。水温む春、山間の暮らしを彩る水の恵みを求めて、旅に出よう。悠々たる水の郷は、どんな表情を見せてくれるだろうか。
多くの人が訪れる 足の病を治すという足神様の御神水
「やはり一つ上げろと言われると天竜川でしょうかな」。井上靖の短編小説『川の話』には、川が好きだという主人公が登場する。「海へ出ようとする一途さ」に心ひかれ、特にいちばん好きな川として天竜川の名前をあげるシーンが印象的だ。
「暴れ天竜」の異名を持つ天竜川は、その豊かな水量で人々の暮らしに恵みを与えてきた。周囲には、水にまつわる名所が数多く点在する。長い冬から目覚めた北遠エリアには、どんな水の恵みがあるのだろう。まずは、「神様から授かった水」が湧き出るという足神神社を訪ねた。
飯田線にゆられて水窪駅へ。かつて宿場町として栄えた町並みに別れを告げ、秋葉街道を車で走ること30分、赤鳥居がひっそりと佇んでいる。鳥居をくぐって急な石段を登ると、そこに小さな社があった。鎌倉時代、諸国行脚の途中で足を痛めた執権北条時頼を看病した守屋辰次郎が祀られているのだという。ここは、全国でもめずらしい、足の神様を祀る神社なのだ。
神社から少し下ったところに、足神様の御神水と呼ばれる水が湧き出ている。足の病に効くという言い伝えがあり、この水を求めて遠路はるばる訪れる人も少なくない。足を故障したサッカー選手がお参りに来たこともあるそうだ。北遠随一の冷たさとも言われる湧き水に手をかざし、そっと足につけてみる。道中の疲れが、これで少し和らぐだろうか。
民話の舞台へ 雨の恵みをもたらす竜龍王権現が棲む滝
水窪から再び飯田線に乗り、佐久間駅に降り立つ。ここ佐久問では数多くの民話が語り継がれている。そのひとつ「龍王権現」という民話に登場する滝を、ぜひとも見てみたいと思ったのだ。それは、こんな話だ。
──そのむかし、日照りが続いたある村で、龍王淵の龍王権現様に雨乞いのお祈りをした。ところが、お祈り最後の日にお供えする膳椀がない。権現様に膳椀も貸してほしいと頼んだところ、見事に両方ともかなえてくれた。それ以来、日照りの時に龍王権現様に祈ると、必ず雨の恵みがあったという。
山間に暮らす人々の水への思いが伝わってくるようだ。そんな民話の世界に思いを馳せながら、吊り橋を渡り、沢沿いをさらに歩くと、龍王権現の滝が現れた。
両側を120mの絶壁に挟まれ、大量の水が轟音とともに翡翠色の滝つぼに流れ落ちていく。背後に広がる断崖は「犬地獄」と呼ばれ、犬さえも躊躇して入ることができないと言われる原生林が広がっている。その深遠なさまに、思わず息をのむ。村人たちが一心に祈った龍王権現の姿が、今にも立ち現れてくるようだ。
水のエネルギーを体感できる 山峡の勇壮なダム
北遠の水の恵みをたどる旅に出たら、やはり訪れておきたいのは佐久間ダムだ。暴れ天竜の水を強大なエネルギーに変える佐久間ダムは、戦後復興期の旺盛な電力需要に応えてJ-POWER(電源開発)が開発した。「戦後土木技術の原点」とも謳われている。車で山道を走り、トンネルをいくつか通り抜けた先に、コンクリートダムの姿がある。雄大な自然の中にどっしりと構える巨大な人工物。本来の使命を全うすることのみを目的とする、無駄のないデザインが美しい。
ダム湖は天竜奥三河国定公園に指定され、春は新緑、夏は山百合、秋は紅葉と、四季折々の表情を見せる。湖畔では毎年10月に「佐久間ダム竜神まつり」が開かれるそうだ。竜神の舞をはじめさまざまな伝統芸能が披露され、湖上花火が打ち上げられる。ダムの探検ツアーも人気で、地元の人に愛される佐久間の秋の風物詩となっているようだ。
湖を望む山麓には、電力やダムについて学べる佐久間電力館がある。その展望台に上って、眼下に広がるダム湖一望の絶景を堪能しよう。大自然に抱かれた壮大なダムが、悠々と水をたたえている。その神気あふれる光景は、私たちに大きな力を与えてくれるようだ。これもまた、水の恵みに他ならないのだろう。
◎写真提供:山本典義、内藤昌康、浜松市