障害者アスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2019年1月16日

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 競技者としては視覚障害者柔道からブラインドサッカーへ新境地を開き、ビジネスマンとしては「視覚障害者の雇用創出!」をテーマに2018年12月にユニバーサル鍼灸院を開設した田村修也さん。

 その新たな挑戦に懸ける思いを聞いた。

田村修也さん(撮影:筆者)

 元視覚障害者柔道日本代表、現ブラインドサッカー「GLAUBEN FREUND TOKYO」監督 田村修也。

 先天性の視覚障害で両親ともに視覚障害者。小学3年生くらいまでは教室の一番後ろからでも眼鏡を掛ければ黒板の文字が読めるほどで、不自由はなかった。

 しかし、4年生くらいから視力が低下し、5年生になる頃には単眼鏡を使わなければ黒板の文字が読めなくなった。

 しかし、田村は3人兄弟の末っ子で兄たちも視覚障害者であるため、学校側も視覚障害について理解していて、テストの答案用紙の文字を大きくしたり、見えやすいように配慮してくれたため、高校生まで一般校に通うことができた。

 「視覚障害で困ったことといえば、僕の場合は視野の真ん中が見えていないので、会話をしている相手と視線が合わないことでした。それで、『おまえどこを見てるんだよ』とか、『俺のこと見てないじゃん』なんて言われて、思春期の頃はそれが気になっていました」。

 両親に盲学校に通いたいと切り出したことがあったが、「兄二人が高校まで一般校で卒業しているんだから、あなたも大丈夫、できる」と説得された。

柔道を続けていくことにも壁はあったが……

 「柔道をはじめたのは小学校1年生。スポーツをやらせたいけれど、両親は視覚障害が子どもにも遺伝するんじゃないかということで、パラリンピックで知った柔道をやらせようと思ったみたいです。球技はいつか限界がきて諦めさせなければならなくなる。ならば長く続けられる柔道がいいんじゃないかと」。

 視力が弱くなっていくなか、柔道を続けていくことにも壁はあった。しかし、田村はその一つひとつを乗り越えながら高校生まで健常者の大会に出場していた。

 「試合会場ではトーナメント表を見て自分で試合までの時間や順番を管理しなければなりませんから、友人や後輩に、いま何試合目? と聞いたり、試合中の選手のゼッケンを見てもらって試合順を確認したりしていました」。

 田村にとって幸いなことは兄が二人とも視覚障害者なので部内に理解と経験があり、練習や試合でどのようなサポートをすればいいか心得てくれていた、と感謝している。

 中学時代は福島県大会で準優勝、東北大会では3位。高校時代は全国高校定時制通信制柔道大会でベスト8の実績を持っている。

 「こうしたことも自信になっていますので、あまり障害についても抵抗感はありませんでした。でも、高校生になると友人がバイクの免許を取ったりするので多少は気になりましたが、周囲がみんなで気を遣ってくれたのであまり不自由はありませんでした。たとえば飲食店に入ったときなどは、『メニュー読むよ、何系がいい? 』と言って順番に読んでくれたり、僕が危なそうにしていると黙って駆け寄ってきて手を貸してくれたりするような友人が傍にいてくれました」。

 「目が悪いからといって離れていった友人はひとりもいません。ほんとうに恵まれていたと思います」。

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