2024年5月4日(土)

幕末の若きサムライが見た中国

2019年7月7日

拉孟・騰越の戦い

 2012年5月初、雲南西部からミャンマー国境へ旅をした。もちろん騰越にも行ってみたが、伊東が綴っている「六里」の城壁が、そのまま現存しているわけはない。多くの中国の都市と同じように、農村からの人口を呑み込み拡大する街並み、多様化する交通手段、モータリゼーションの荒波に直撃され、そのうえに都市再開発・不動産開発という暴風の前に、為すすべもなく打ち壊され消え去っていた。

 騰越でも事情は同じ。城壁は見当たらない。だが、かつて西側城壁の中央部に穿たれていた城門の外側の脇にイギリス領事館は残っていた。伊東が訪ねた当時の建物かどうかは不明だが、その前には「雲南省重点文物保護単位 英国領事館 雲南省政府 二〇〇三年十二月十八日」と記された標識が立っている。

 イギリス領事館はこの地方特産の石造りで重厚な建物に見えたが、近寄ると石の壁には無数のデコボコが認められる。銃弾が当たって砕けた痕だ。昭和19年夏の滇西戦線における死戦の末に拉孟、龍陵を放棄せざるをえなかった日本軍が最後の最後まで守ろうとした騰越の戦闘の凄まじさが改めて伝わってくる。

 昭和19年夏、「城外の警戒陣地をすべて失って、戦場は、城壁戦に変わった。騰越城はじかに遠征軍に包囲されたのだ」。「友軍は、残されたわずかな兵員を減らすばかりであった。守備隊の塹壕は、火焔放射器で焼き払われ、兵士たちは、火だるまになり、そして黒焦げになって死んで行った」。「騰越城の守備隊は、二千数百名の将兵が、落城の九月十四日には、六十人ぐらいに減り、その六十人ぐらいも、落城の後、ほとんどが死んで行ったのである」。

 「脱出部隊は、林の中を、東北の方角に進んで行った。脱出部隊は、師団司令部のある芒市まで敵中を潜行してたどり着き、騰越守備隊の最期の状況を報告せよ、といわれたのである。しかし、芒市までたどり着けた者はついにいなかったのである」と、古山高麗雄は『断作戦』(文春文庫 2005年)に綴る。因みに芒市とは、騰越のさらに南に位置するに国境の街であり、日本軍の雲南進攻作戦上の重要拠点の1つだった。

 遠征軍、つまりアメリカ軍の最新装備で固めた蔣介石軍の数は4万とも6万とも。対する日本軍は「二千数百名の将兵」である。城壁を盾に戦った兵士は、いったい、どんな心境だったろうかなどと思いを馳せるのだが、目の前の領事館は全面改装工事中だった。

 おそらく「雲南省重点文物保護単位 英国領事館」は中英両国友好のシンボルとして、また滇西における抗日戦争の記念碑として保存されるだろう。領事館外壁全体に認められる無数の弾痕は、おそらく抗日戦争の“勲章”ということではないか。

 歴史を抜きにした中国論議は無機質に傾き、精緻さを競うがゆえに実像から離れてしまいがちだ。村木、伊東が現地を歩き“体”で考えながら書き残したからこそ、21世紀初頭の現在の姿を鮮やかに浮かび上がらせてくれるに違いない。未来は過去の裡に隠されているようだ。

 なお引用は村木正憲『清韓紀行』(出版地・出版年不明 明治三十三年序)/伊東忠太「支那旅行談」(『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)に拠った。

連載:明治の反知性主義が見た中国

  
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