2024年12月23日(月)

幕末の若きサムライが見た中国

2019年7月7日

世界で二番目に高いミャンマーのゴッティ鉄道橋。鉄道はマンダレーからラショーまでだが、そこから先の道が、雲南につながる(Mongkolchon Akesin/gettyimages)

 明治元(1867)年に岡山で生まれた村木正憲は政府から命ぜられ、明治33(1900)年4月12日に新橋駅を出発し、清国の郵便・電信・鉄道・金融事情を軸に詳細な現地調査を行い、5月27日に帰京した。この間、「費す所僅に一箇月有半のみ」ではあるが、極めて詳細な報告書を書きあげている。さすがに東京帝大政治学科卒で、後に郵便為替貯金管理局長、名古屋郵便局長を務め、退官後に宇治川電機株式会社総支配人、大阪鉄鋼所取締役などを歴任したエリートなればこそ、である。

 だが、村木の面白さは、自らが接した清国の現実を頭ではなく“体”で考えることに努め点にある。

 新橋を発ち西下し、門司、長崎を経て4月18日に上海の呉淞に着した。上海港は「光景宛然歐米に遊ふの感あり」と綴る。

 翌日から精力的に動き出し、先ず在上海の外国郵便局(日本、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ)を訪問し、郵便事情を仔細に調査する一方で、上海租界の政治・行政・財政事情など“上海百科全書”というべき膨大な記録を残す。これだけの仕事を短時日で仕上げるのだからよほどの仕事魔と思いきや、仕事一筋の石部金吉ではなかった。

 「支那劇場桂仙茶園」で「當園の呼び物」である「女方小喜鳳」の芝居に心を奪われてしまったらしく、「容姿端麗音吐秀麗心神をして恍惚たらしむるものあり」と記す。「歌妓の寓居」に上がり、彼女らの奏でる琵琶や胡弓の調べに「旅情を慰」め、妖艶な振る舞いを「可憐の光景」などと綴る。さらに上海の花柳界事情にまで筆を進め、「支那の歌妓」やら娼妓、さらには街娼、その界隈での遊び方まで熱心に綴っているところからして、粋人ぶりもさりながら相当の、いや異常なまでの好奇心・探求心の持ち主と見た。

 4月20日には上海を発ち、南京、武昌、漢口へと長江を遡った。

 武昌では「武昌に於て四五年来支那人間に流行し追々在留の日本人にも波及せし拳」を「頗る面白し」と評し紹介している。

 「要素は露國、支那官吏及支那農民の三にして露は支那官吏より強く支那官吏は支那農民より強く支那農民は露國より強し」

 ゲームは手を額にして「露國」を、口髭を撫でて「支那官吏」を、拳を突きだして「支那百姓」を表して行われる。どうやら「三國干渉に依りて好意を表したる露國が手の裏を翻すか如く遼東半島の要港を占領したる怨恨」から考え出された拳らしく、「安んそ報復せすして止まんやとの意味なりと云ふ」とのことだ。

 日清戦争勝利に沸く日本にイチャモンをつけ、敗戦し弱体化の道を辿るしかなかった清国に同情するフリを見せながら、とどのつまりは清国から「遼東半島の要港」を毟り取る。ロシアのアコギ極まりない仕打ちに対する清国民の「安んそ報復せすして止まんや」との抵抗心が、この拳を産み出したのだろう。


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