とてつもない旅をした明治人たち
伊東は先ず貴陽に到着。「貴陽武備学堂の高山少佐(今の高山大佐公通氏)以下の学堂諸君の歓迎を受け、久々にて我が同胞の温かき情に旅の疲れを休めた。此の武備学堂は貴州省城の南郊にあり、六名の日本教習が教鞭を執って居」た。当時、中国各地の地方政権指導者の多くは先を競って武備学堂、つまり士官学校を創設し、日本から軍人を招いて強兵教育を目指した。西欧列強の侵略から郷土を守るためには富国強兵が第一であり、ならば日露戦争に勝利した日本に倣うべし。そこで、日本式軍人教育から中国の富強を目指そうとしとたわけだ。
貴陽からの旅は、「先年此の地を歩渉せられ、当地に数日滞在され」た鳥居竜蔵が「旅行中乗用された轎」に修繕を加え使った。人類学者の鳥居は、伊東より早くこの地に足を踏み入れている。
さらに西南に進み上塞駅に着くと、「思いがけなや我より先に二人の日本人が休息していた。互いに余りの意外に呆れて、しばし顔を見詰めていたが、やがて互いに名乗るを聞けば、一人は京都第三高等学校生野村礼譲君、一人は同茂野純一君であった」。野村は英文学志望で岐阜大垣出身、野村は哲学志望で和歌山有田の人。2人の若者が、なぜ西南中国の山中にいたのか。
伊東は続ける。「彼の京都西本願寺の大谷光瑞新法主が印度探検の一行に加わるべく、法主の招聘に応じて昨年の大晦日に日本を発し、印度に向いた」ものの、先代法主急逝のため大谷光瑞新法主が急遽帰国したことからインド探検の一行に出会えなかった。だが、後に大谷光瑞とはビルマ中部の要衝で、中国人が「瓦城」と呼ぶマンダレーで面談している。
その折、大谷光瑞は「両氏に雲南より漢口に出て日本に帰ることを命じたので、今や漢口に向かう途上にあるのである」。そこで伊東は2人と終日語り合うことになるが、「私は光瑞新法主の雄図を両氏より詳らかに伝聞して感興禁じ難く、つくづく今自分の試みつつある旅行の姑息にして小規模なることを恨んだ」と綴った。
現在でも中国西南は日本からは遥かに遠い。であればこそ、100年以上も昔の同地における調査旅行が「姑息にして小規模」であるわけがない。にもかかわらず伊東が「雄図」と驚嘆した大谷の旅行はどのような規模だったのか。想像するだけでもワクワクしてくる。