中国辺境に敷かれる鉄道網
村木は1899年における輸出入・再輸出や船舶の運航状況を詳細に分析しているが、興味深いのがそれに続く全国鉄道網の現況と将来計画に関する詳細な分析、殊に次に示す雲南省に関連した項目だ。
「滇緬鉄道/本線は雲南と緬甸とを連結する英国企画の鉄道なり本鉄道は左の二線あり(一)重慶より雲南に至りスマオを経て緬甸のムルメーンに至る線/(二)雲南より大理府を経緬甸のラングーンに通するマンダレー線と接続する線/緬甸と支那の境界には高山大川あり工事上至難なるへしと雖も英は百難を排して敷設を遂行するの目的を以て昨年来線路の踏査を行ひつヽありと云ふ」。
「雲南鉄道/本鉄道は遼東半島還付に報酬として仏国に獲得したるものにして其線路は左の如し/(一)東京の海防より河内を経紅河を上り老街、蒙自を経て雲南に至る凡そ二百哩/(二)広東省北海より南寧を経て蒙自の北方に於て前記の線路と連絡するもの/(三)広東より三水、梧州、南寧を経て龍州に至るもの」。
「滇緬鉄道」はイギリスが、「雲南鉄道」はフランスが、共に植民地とて獲得したビルマ(現ミャンマー)と、インドシナから発して雲南を経由して南方から中国本土を押さえようとした路線だ。その目的の一端が「鑛物富む」地域の占有にあったことはいうまでもないが、鉄道を敷設するだけではなく、その沿線の利権も手に入れようという狙いである。なお「滇」は雲南省を、「緬」はビルマを指す。
ここで前回の戸水寛人(『日本に対し「不当の扱い」を繰り返してきたロシア』)を思い出してもらいたい。
彼はロシアの南下に危機感を抱き、「露西亜は既に満州を席巻した上にまた」「『ゴビ』の沙漠を横断して張家口まで鉄道を敷設せうとして居る」。「露西亜と東洋の覇権を争ふところの日本は默して之を見て居るのは得策で無い」と憂憤を漏らした。つまりロシアは満洲を押さえる一方で、西北方のゴビ砂漠経由の鉄道を敷設して北京を狙った。
これに対し既に長江一帯への進出を果たしているイギリスは西南方向のビルマから、フランスは南東方向のヴェトナム北部から共に雲南省を経由して中国中央部を目指した。まさに中国大陸を舞台に西欧列強による「大競争」が展開されていたわけだ。であればこそ、日本も雲南方面に無関心でいられるわけがない。
村木の旅行から7年後、日露戦争勝利から2年後の明治40(1907)年の秋から冬にかけ、村木が記した滇緬鉄道の予定ルートに沿って中国側から旅行したのが、明治から昭和前期を代表する建築家で、橿原神宮、平安神宮、明治神宮、朝鮮神宮、靖国神社神門、築地本願寺などを手掛けた伊東忠太(慶応3=1867年~昭和29=1954年)である。