西島良爾は明治3(1870)年に静岡県函南村に生まれ、20歳になった明治23(1890)年には静岡県選抜生として日清貿易研究所(第一期生)に入学した。日清戦争が勃発する4年前のことである。
この研究所は、荒尾精が陸軍参謀本部在勤時に考えた白人の侵略に対するアジア防衛策(【1】「貿易富国」=日清両国の貿易を拡大して経済大国を目指し、【2】「共同防禦」=両国が提携して白人に対抗する)を実現させるために上海に設立した両国貿易振興のための人材養成機関であり、後の東亜同文書院へと繋がっている。
日清戦争に陸軍通訳として従軍した後に台湾総督府に転じた西島が『實歷清國一斑』(博文館 明治32年)を著したのは、29歳前後のことだった。荒尾の許で学び、日清戦争を体験した西島は当時の清国をどのように捉えていたのか。
29歳の西島の考えに反映されていたであろう日本が置かれていた国際的立場を振り返ってみることは、あるいは情報技術を軸に将来の世界覇権をめぐって激しい攻防を繰り返す米中両国の狭間で苦慮する現在の日本を考える上で、1つのキッカケになろうかと思う。そこで、先ずは清国に対する当時の日本における一般的な見方を概観してみたい。
三国干渉後も続いていた「清国ブーム」
じつは『實歷清國一斑』の巻末には新刊書の広告が溢れている。当時の“売れ筋”と考えて間違いないだろう。
最も広い広告スペースを占めている『日清戰史』(紫山川崎三郎/カッコ内は著者名)のキャッチコピーは、「日清戦争は、昿古の偉業にして兵事上より云へば一世界の兵制を革新せしむる端を啓き政治上より云へば、東邦の形勢を一変せしめたるものなり」であった。
次が「賜 天覽」の3文字が輝かしくも冠せられる『平壤包囲攻擊』(藤野房次郎)で、以下は『再版 中東戰記本末 一名:清國人の日清戰爭記』(藤野房次郎訳)、『支那文學史』(笹川臨風)、『世界歷史譚 孔子』(吉國藤吉)、『支那文學全書』(全24冊)、『新撰支那國史』(紫山川崎三郎)、『對清意見』(荒尾精)、『支那人氣』(澁江保)、『支那南部會話』(岸田吟香閲、小倉錦太編)、『中等敎育 支那史』(藤田梁言)、『支那處分案』(前文部大臣尾崎行雄)、『清俗紀聞』(中川飛彈守忠英)、『支那文典』(村上秀吉)と並ぶ。
これら書名と著者から判断するなら、『實歷清國一斑』を出版した博文館は日清戦争の戦勝回顧から古典講義、歴史や清国事情分析、さらには清国政策に対する建言まで、多岐にわたる清国関連書籍を出版していたことになる。これが日清戦争勝利直後に三国干渉を受け入れてから既に4年が過ぎた明治32(1899)年の時点における博文館の営業方針――売れるから出版する。出版すれば売れる――ということだろう。
博文館がそうなら、やはり他社も同じような営業方針だったと考えられる。やはり三国干渉後も出版界では依然として“清国ブーム”が続いていたということか。そこで知りたいのが、当時の清国に対する素朴な国民感情である。
じつは三国干渉を受け入れ遼東半島を全面放棄した直後の明治28(1895)年6月、勝海舟は、「ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲での戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方なくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ」(『氷川清話』講談社学術文庫 2003年)と呟いていた。
つまり勝海舟は日清戦争勝利に高揚する国民を諌めたわけだが、ということは――今風に表現するなら――“清国崩壊論”とまでは言わないものの、“清国軽視論”とでも言うべき風潮が国民の間に一般化していたと考えて間違いなさそうだ。
そこで西島だが、彼は隣邦の崩壊を予測し、軽視すべしなどと得々と論じているわけではない。むしろ清国を蚕食するばかりの西欧列強の横暴を許すなら、その禍は我が国にも及ぶとの危機感に突き動かされるようにして筆を執っている。かくて『實歷清國一斑』は「世人をして大に醒覚せしむることあらば実に国家の幸なり」と執筆動機を記した。