1919年5月4日、北京大学の学生を中心とする集団が天安門広場に集まって日本批判の声を上げるや、反日の動きが各地に波及した。折からパリで開かれていたヴェルサイユ講和会議において、「敗戦国ドイツが山東省に保持していた利権を日本に継承させるな」との要求が拒否されたことから中国が反発し、民族主義に火が点いた。近代中国における最初の本格的反日運動で知られる「五・四運動」である。
五・四運動の2カ月前の3月1日、京城(現在のソウル)では独立万歳を叫ぶ「三・一独立運動」が起きている。
――平成から令和へと御代かわりした今年から数えて100年前、我が国は近隣民族による反日の動きに直面していたことになる。
若者たちが見た「反日」の実態
一橋大学の前身である東京高等商業学校の「日頃東亞の研究に志」し、「互に意見を交換したり先輩の講演を聞いたりしてゐる」東亜倶楽部の30人の若者は、1919年夏、反日に揺れる中国各地を40日程かけて探訪した。
一行を引率した同校教授は反日の動きについて、「歐米の商品を扱つて居るものが故意にやる外は支那で相當名のある實業家や多數商人は一般に日貨排斥の意志を眞から持つては居ないので唯學生の危害を惧れるのと民衆への氣兼から形式的にやつて居る」と捉えた後、運動の背後に「歐米某國の悪辣煽動教唆」を指摘する。
要するに第1次世界大戦も終わり、「歐米某國」は再びアジア侵略に転じつつある。ここで「歐米某國の悪辣煽動教唆」に惑わされることなく「(日中)両國民の結束一致」を促す必要があり、“前途有為な諸君は、その偉大なる任務に邁進せよ”というのだろう。
だが、現地を歩いた若者たちの考えは違っていた。
最初に訪れた上海では各所で「排日の殘勢」が見られた。欧米人の住む租界の街路でも「(反日の)貼紙は方々に見かけた。泣告同胞、抵制日貨などといふのが一番多かつた」。
そこで、若者は反日運動の背景を考える。
たとえば上海租界の「義勇隊などの御厄介になるのは日本人が一番多い癖に志願者は一人もないさう」であり、休日のフランス租界の公園は「日本人が大部分を占領してゐ」るが日本人だけで固まり、軽快な服装をして楽しんでいる西洋人親子と和むことなく、中には小汚い身なりも見受けられる――上海在留日本人の姿は「外人のそれと比較して何たる對照だらう」。要するに日本人自らの無自覚な振る舞いもまた「排日気勢を昂めた」のではないかと、若者は疑問を持つ。