伊東は西南方向に進む。呂南街で出会った英国人牧師は、「井戸川大尉の一行及び高等学校生徒の五人連れの一行に邂逅したと云」うのだ。彼ら日本人が何の目的で旅を続けていたのか。おそらく井戸川大尉一行は、来るべき戦争に備え、この地域の兵要地誌作りをしていたのだろう。あるいは高等学校生徒たちは、「大旅行」と称し中国各地を歩いていた上海の東亜同文書院生ではなかったか。
それにしても怪しいのが英国人牧師だ。彼は雲南在住で「今緬甸の方から帰るところであるが今日は日曜日であるから旅行を見合わせ一日読書に耽っていると云う」が、やはりインテリジェンス・サービス要員とも考えるのが常識というものだろう。
いずれにせよ中国西南辺境からビルマ北部、さらにインド東部にかけ、列強の利害と打算が入り乱れていたことだけは確かだ。この国際的なゲームに、日本も鋭く参加していたと考えたい。
驚くことに伊東は、さらに西南に進んだ黄連舗で井戸川大尉一行に出会っているのだ。
「聞けば井戸川大尉は二月初旬より重慶を発し瀘州に至り、雲南を訪い、安寧州より間道を経て景東に出た」。「景東より更に間道に由って騰越に行かんとせしも道路一層困難なりと聞いて下関に出で、順路緬甸に入りて今重慶に引き返すところであると」のこと。
「(井戸川大尉は)其の間徹頭徹尾徒歩を強行した」。現在の視点からみれば伊東の旅行すら「洵に驚嘆すべきである」であるが、その伊東をして「勇気洵に驚嘆すべきである」といわしめるほどだから、井戸川大尉の旅程は想像を超えて困難を極めたに違いない。
第二次大戦のビルマ作戦に役立ったのか?
はたして井戸川大尉一行の足跡は、後の第2次大戦時の滇緬戦争に役立っただろうか。
援蔣ルート封鎖を目指して滇西から緬北に展開した日本軍の進軍ルートは、井戸川大尉一行の探索したルートと果たして重なり合っていたのだろうか――興味は次から次へ。まるで雨上がりの山裾から山頂に向け、山肌を猛烈な勢いで這い上がってくる霧のように湧いてくる。さらに西南に進んだ伊東は、井戸川大尉が遂には断念せざるを得なかった騰越に到着している。
この地は雲南西南端に位置し、さらに西南に進めば北ビルマの要衝で漢字で「新街」とも「八莫」とも綴るバーモに到る。バーモを左折して南下すればマンダレーを経てヤンゴンに繋がり、右折して北ビルマを西進すれば漢字で「蜜支那」と綴るミートキーナを経てフーコン谷地を貫きインド東部のレドに至る。フーコンとは現地語で「死」を意味する。フーコン谷地は、その名に違わず豪雨、猛禽、疫病、灼熱の地獄。まさに死の谷であり、第2次大戦時、日本軍はインパール作戦以上の苦戦を、いや壊滅的打撃を強いられた。
昭和19(1944)年から20(45)年にかけ、この地をめぐって日本、中国(国民党政権)、アメリカ、イギリスが死闘を繰り返すほどに滇西から緬北に広がる一帯は、戦略上の要地だった。それはいまでも同じだろう。であればこそ現在、中国は、この地域を経由して猛烈な勢いで“熱帯への南下”を続ける。一帯一路である。