2024年11月22日(金)

幕末の若きサムライが見た中国

2019年7月7日

多くの無名の日本人が黙々と働いていた

 伊東は騰越を「支那帝国の西南の門に当る要地であって、英国総領事館が置かれている」とし、「英国総領事館の調査によれば一日往来する騾の数は二百五十頭に上り、緬甸からは木綿又は綿糸を輸入する。輸出は雄黄、阿片等であったが、今阿片は厳禁したそうである。騰越の城は囲六里、人口九千と注せらる」と紹介する。ここでいう城は城壁のことであり、この城壁に囲まれた騰越の街に9000人が住んでいたわけだ。

 じつは人口が9000で、「一日往来する騾の数は二百五十頭」程度の騰越に、イギリスは20世紀に入るや直ちに総領事館を置いている。騰越が伊東のいう「支那帝国の西南の門」という地政学上の要地に位置しているからだ。19世紀後半以降、英国はインドとビルマを、仏国は仏領インドシナを、共に中国の南方に確保した植民地を拠点に中国南部への侵攻を狙った。つまり「支那帝国の西南の門に当る要地」である騰越を、イギリスは中国侵攻のための重要拠点と位置づけたことになる。

 「英国総領事はリットン氏」は「是非領事館に泊まれと云って非常な厚意を尽くしてくれた」。「年齢は三十五六に過ぎない様だが精力絶倫で、雲南総領事を兼務し、書記も助手も何も使わずに只一人で」全業務を担当していた。彼の仕事ぶりを目の当たりにした伊東は、「これを我が日本の領事館の執務振りに比べると実に非常なる差異がある」と驚嘆している。確か騰越には日本は領事館を置いてなかったはずだから、伊東のいう「日本の領事館」は彼が旅の途次で接触した騰越までの各地の日本領事館を指すと考えられる。それにしても既にこの時代から、我が在外公館の仕事振りに大いに問題があったとは。

 「英国総領事はリットン氏」は、伊東の旅行の「先途を気遣いてバーモ、マンダレー、ラングーン等の知事、印度政府の外務省及び君士但丁堡(コンスタンチュノーブル)の英国大使等へそれぞれ紹介の書面を認めて呉れ、医師を聘して私の健康を診断せしめ」、「出来得る丈の調査の便宜を与えて呉れた」。総領事の厚意の背後に、日英同盟をテコにした当時の日英友好関係があっただろうことは容易に想像できる。

 3日間の滞在中のある日、2人は「涼風に吹かれつつ壁上を漫歩して寂寞たる城内を腑、仰いで突兀たる大営山を望み、支那帝国の前途を語」った。伊東は「其の快感、私は終世これを忘れることができないのである」と、感謝の意を込めて綴る。

 結局、伊東は貴陽から北ビルマの要衝で知られるバーモの間を60日以上かけて踏破していた。この間、イギリス人2組、フランス人3組、日本人2組と遭遇しているが、英仏両国人の旅行を「己の勢力範囲内の土地を普通事務の為や旅行の為に旅行」と看做す一方、日本人の旅行は「何れも探検的性質のもの」と記した。だが、貴陽、雲南という中国西南辺境を廻る3カ国7組の旅は、共に将来の中国における権益をめぐっての戦いに備えたものであったと考えるべきだ。中国権益をめぐる列強の戦いは、かくも苛烈だった。

 清朝終焉まで残り4年。蒙古、満洲、チベット、ウイグルなど。伊東の足が印されなかった中国辺境各地で、多くの無名の日本人が黙々と働いていたことだろう。明日の日本のために。


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