この熱き人々

2013年10月14日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 浅草ゆう子は、大正12(1923)年に本所向島、現在の押上駅の裏手で生まれた。本名は菊池フミ。生後6カ月で関東大震災に見舞われ、約3万8000人が亡くなった本所被服廠(ひふくしょう)跡地に逃げ込みながら、九死に一生を得るという強運を道連れに人生をスタートさせた。

 「おっ母さんは、ステキな人だったわよ。私と違って色気があってね。私が生まれた時は母が40代で、父は母より20歳も下の20代だった。父と一緒になる前は旅回りの一座の座長に惚れて一緒になって、父の違う兄3人姉3人がいて、長屋に一家9人が暮らしてました。みんな私をチビチビって呼んでかわいがってくれてね」

 旅芸人だった母が端唄を教えていて、父はその弟子だったという。すぐ上の兄とは10歳違い。長兄は父と年齢が近い。無口でやさしく若い父と明るくて豪快な年上の母という変則家族は、年の離れたかわいい妹の存在が接着材になっていたのかもしれない。芸事が大好きな母は、端唄を教えるだけでなく浅草六区の寄席で三味線の弾き語りもしていて、ゆう子は生まれた時から母の三味線や唄を耳にして育った。言葉を覚えるのと同時に、唄も覚える。歩くようになるのと同時に、踊り出す。3歳の時には母の三味線の弾き語りに合わせて舞台で踊っていた。

 「母が教えている端唄を自然に覚えちゃったのよ。踊りも見よう見まねで踊ってたから。近くの寄席から『ちびちゃんに踊ってもらえないか』って声がかかって、母と出るようになったの」

 3歳の子が、忍ぶ恋路の儚(はかな)さや命懸けの逢瀬を唄った「忍ぶ恋路」に合わせて、時に手ぬぐいを切なく噛んだり、思い入れたっぷりにうつむいたりすると、客は喜んで喝采を送った。うまく踊れると、ご褒美は板チョコ。

 「チビ助うまいぞ! なんて声がかかるとうれしくてね。子ども心に快感でしたね」

浅草花柳界へ

 3歳にして、踊りと唄と人前で芸を披露する面白さに目覚め、4歳で母に買ってもらった子ども用の三味線をつま弾く。踊りが大好きなゆう子のために、両親は日本舞踊のお師匠さんを探してくれて、6歳の6月6日から本格的に踊りを習い始めた。が、小学校の高学年の頃、両親が日本舞踊を続けるのに費用がかかると話しているのを聞いてしまった。親に迷惑をかけずに、どうしたら踊りが続けられるのか。

 「本所近くに柳島館という映画館があって、映画好きのおっ母さんがよく連れて行ってくれたんだけど、映画に芸者さんが出てきたのよ。仕込みさんという見習いがいて、芸事を習って芸者になるんだということを映画で知ったのね。こうすれば踊りばっかり踊っていられるんだ、私もこういうところに行きたいって思ったわけよ」

 まだ幼いゆう子の決心に兄たちは、女の子はお嫁に行ったほうがいいと反対した。が、母は賛成してくれた。小さいときから頭痛持ちでこめかみに膏薬を貼り付けているゆう子は、嫁に行ったら苦労してかわいそうだからという理由。さらに「女優はいい女じゃなければダメだけど、芸者は芸があれば一流になれる」と加えた。

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