2024年5月9日(木)

世界の記述

2024年2月27日

 <「インクィジティブ(inquisitive)という言葉をご存じですか。つまり、知りたがり、好奇心が強いということですが、欧州人や日本人はそれでしょう。でも、我々は違う。我々は土台が知りたがり屋じゃないんです」>

 <「好奇心旺盛であちこち見て回れば物の見方も豊かになり、お金も儲かるかもしれませんが、旅行をするにはお金がいる。でも、そうでなければ、お金など大して使わずに暮らしていける。私が子供のころは、お金なんて、ないも同然でしたから」>

 世界を見て回るより、語り合いを選ぶ。その老人の言葉に当時、心を打たれながらも私は結局、その後20数年間、記者としてメキシコシティ、ローマ、郡山、東京で「知りたがり屋」を続けてきた。そして今更ながら、「古くからの知り合いとのつきあいを深める」ことに時間を割いている。

4時間歩いて友人に会いに行く

 ソウェトから車で30分ほどの地にグラスメールという名の地区がある。その緑の丘の上に友人の小さな農場があり、私はよく泊まりに行く。

 20数年前はまだ疎林の平原に掘っ建て小屋が数軒あるだけだった。その地に降り立ったとき、かつて、ここに来る際、道路脇を歩く男を乗せたことを思い出した。

 彼は感謝の気持ちを語りで返そうとしたのだろう。こんなことを言った。「やっぱり車は速い。きょうは4時間歩いて友人に会いに行ったけど、留守だったから、帰ってきたんだ」

 頬に刻まれた彼の縦皺とまん丸い目、そして、その言葉をよく覚えている。そこに何かを感じたからだ。

 当時、電話を持っていなかった彼は事前に友人に連絡できなかったのだろう。そんな事情はともかく、4時間歩いて友人に会いに行き、また4時間歩いて帰るというその行為に何かを感じたのだ。

 鴎外漱石の時代の東京を舞台にした小説に、東京の街を電車に乗って友人に会いに行き、留守だったので伝言だけ残し帰ってくる場面があった気がする。でも、現代の私たちはそんなことはしない。8時間の往復が徒労になるかもしれないからだ。

 ところが、ソウェトは携帯電話の普及した今もさほど変わらない。私が暮らすピリ地区から徒歩1時間ほどかかるナレディとよばれる地区にいる友人が時折訪ねてくるが、私がいないと知ると、彼はしばらく待ち、また帰っていく。そんなことが何度かあった。「電話をしてくれればいいのに」と言うと「それほどのことじゃないし」「エアタイム(携帯電話のクレジット)がなかったから」といった返事をし、同じ徒労を繰り返す。

ヨハネスブルク周辺の一番の魅力は空。標高が高いため、高地ならではの変幻自在の雲が現れる=2024年1月26日

 「よほど暇なんだね」「時間がもったいないじゃないか」と笑うことはできる。効率という言葉からはるかに遠い時間の使い方を、かつての私は、素朴、純朴、朴訥という言葉で追いやろうとしていた。

 素朴の「朴」はホウノキのことで、「切り出したままの材木。自然のまま。うわべを飾らない。すなお」といった意味だ。彼らは単に自然のままに自分の時間を使っているのだろうか。非効率とわかっていても、それが当たり前だと。

 でも人間には感情がある。友人に会うために歩き続ける気持ちだ。気持ちとはなんだろう。それは時間にもお金にも換算できない、人に備わった何かだ。

 彼らは知ってか知らずか、その何かを大事にしている。彼にとっては効率より、4時間歩いて会いに行くその気持ちが大事なのだ。


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