いま、なぜ武士道なのか

2009年10月31日

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いつの時代も、人の陰口をたたいて喜んでいる人は多いようだ。それが、改善のための批判であればよいのだが、多くの場合は他人をこきおろして快感を得ているだけではないだろうか。
ところが、そうした人はせっかくの成長のチャンスを失していると『葉隠』は指摘する。自身の成長のためには、人の良いところを謙虚に見習い、手本とすべきなのである。だから、穿った見方で他人を見てはならないのである。

  世間は人と人とのつき合いで始まり、つき合いで終わる。その中にあって、見よう見まねで成長していくのである。悪い見本をまねると悪くなり、良い見本をまねると良くなる。これはあたりまえのことであるが、現実の問題となるとうまくいかない。なぜであろうか。それは悪といわれるものの本質の中に楽しみがあるからではあるまいか。つまり、悪というものはその社会では許されない倫理の総体である。その反社会的な行為は社会に対して批判者の立場であり、大きな刺激を与えてくれる。そんなところから批判者の正義面が一種の快感につながるのであろう。しかし、こんな快感に酔っているようでは、しょせん大事は為しえない。いま必要なことは人から学ぶことではあるまいか。

五六十年以 前迄の士は、毎朝、行水、月代(さかやき)、髪に香をとめ、手足の爪を一鼎の咄に、よき手本を似せて精を出し習へば、悪筆も大体の手跡になるなり。奉公人になるなり。奉公人もよき奉公人を手本にしたらば、大体にはなるべし。今時よき奉公人の手本がなきなり。それゆえ、手本作りて習ひたるがよし。作り様は、時宜作法一通りは何某、つつ切れて胸早くすわる事は何某と、諸人の中にて、第一よき所、一事宛持ちたる人の、そのよき事ばかりを選び立つれば、手本が出来るなり。萬づの芸能も師匠のよき所は及ばず、悪しき曲を弟子は請け取りて似するものばかりにて、何の益にも立たざるなり。時宜よき者に不律儀なる者なり。これを似するに多分時宜は差し置きて、不律儀をするばかりなり。よき所に心付けば、何事もよき手本師匠となる事の由。

(現代語訳)
石田一鼎は次のように話した。よい手本をまねて、精を出して習えば、悪事もよくなるものである。勤め人もよい勤め人を手本にすればまずまずのところまではいく。しかし、近ごろはよい勤め人の手本がない。それゆえ自分で手本をつくって学ぶがよい。そのつくり方は、礼儀作法は何某、勇気は何某、話し方は何某、品行の正しいのは何某、義理堅いのは何某、すっきりと思いきりよく決断をするのは何某というように、多くの人の中でよいところをもっている人の、そのよいところばかりを選べば、それで手本ができる。いろいろな芸能でも、師匠のよいところは手がとどかず、悪い癖を引きついでまねるので、何の役にもたたない。礼儀正しい者の中にも実直でない者もいる。これをまねると、たいていは礼儀はさしおいて、実直でない方ばかりまねる。よいところに気がつけば、何事もよい手本であり、師匠となる。

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