2024年4月27日(土)

ACADEMIC ANIMAL 知的探求者たち

2009年11月16日

 この関先生が、1987年に海底熱水噴出孔を調べる日本初のプロジェクトのメンバーになりまして。そして俺をその調査に出してくれました。いま思えばいいめぐりあわせだったのかもね。この経験のおかげで、1989年にJAMSTEC(現・海洋研究開発機構)に入れたわけだから。深海に潜って、チューブワームに魅せられて、そこから海底以外の辺境にも調査対象が広がっていったわけです。

その後は広島大学に移られます。人に教える立場になることに抵抗はありませんでしたか?

——研究だけに没頭したいという思いはもちろんあったよ。それでいうと、JAMSTECのような研究機関のほうがよかったかもしれない。ただ、そういう研究機関はミッション・オリエンテッドで、やるべきことがあらかじめ決まっている。俺は最初から自由度が広いところに行きたいと思ったの。

 もちろんJAMSTECでだって、深海の研究をやりながら地底の研究をやったり、南極に行ったり、宇宙の研究をやったり、やろうと思えばできたでしょう。でも、「やろうと思えばできる」状況より、最初から自由があるほうがうれしいわけ。「やろうと思えばできる」は、「やらないとできない」「やらなきゃいけないことが多い」の裏返し。研究機関ならそれはどこでも同じで、やらなきゃいけないことが絶対ある。いま振り返ると、そんな状況にちょっと窮屈さを感じていたんだろうね。

大学というのは自由なところなんですか?

——研究機関では、自由は初めからは存在せず、自分でつくらないといけない。でも、大学では、自由が所与の事実として存在している。そこが違う。何百年の歴史を重ねて自由を勝ち取っているから大学には初めから自由が存在する。なんてことを考えていたときに、エチゼンクラゲの研究で知られる上真一先生が声をかけてくれて、広島大学に行くことになりました。それまで先生とは会ったこともなかったけどね。

 大学に来てみて、意外にいいなと思ったのは、学生に教えることで自分の頭の内部が整理できること。それまで研究の渦中にあったものが、教えてみると整理されてすっきりする。当初、教えるのなんていやだったけど、やってみたらそこが意外によかったんだよね。

1995年には、かねてからの夢だった宇宙飛行士に挑戦されています。

——その前の募集のときは、まだ若すぎて応募には至らなかったけど、このときはちょうど自分にいいタイミングでめぐってきた選考だから、迷わず挑戦しました。毛利衛さんが応募したときと同じ助教授だったし、年齢も当時の毛利さんと同じぐらいだった。結局、セミファイナルの四十数人まで残ったけど、そこから先は進めなかった。俺の隣の席にいた野口聡一さんが選ばれて宇宙飛行士になりました。

もう少しで宇宙に行けそうな感じというのはありました?

——野口さんをはじめ、まわりを見るとすごい人ばっかりだったから、こりゃかなうわけあんめえ、と思いました。選考過程ではオヤジギャグを言ってみたりして、まわりのムードを和ませる役割に徹しようと思ったんだけど、もしかしたらそれも響いたのかもしれないね(笑)。

宇宙飛行士にならなくてよかったと思いますか。

——いまがハッピーだからそれでいいと思っているよ。初心に返って考えると、俺は宇宙の起源が知りたくてそのために宇宙に行きたかったわけで。起源を知ることができるんだったら、別に宇宙まで行かなくてもいいとも思うなあ。だからこそ、いまの生き方があるわけだし。


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