

天正元 (1573)年、武田勝頼によって築かれた諏訪原城は、築城450年を迎えた。城郭考古学者・千田嘉博さんは、「山城の魅力を知るうえで、こんなに素敵な城はありません!」と断言する。千田さんによると、城の楽しみ方には『天守や櫓など城の建造物に関心を持つ第一段階』、『石垣や堀など城の土木建築に興味を抱く第二段階』、『石垣だけ残る城跡を訪ねてよろこぶ第三段階』、『石垣もなくただ地面が凸凹している土の城跡を楽しむ第四段階』があるという。
「第四段階になると、たいていの場合、山林のわずかな土のくぼみや盛り上がりから、『ここは城門だったのでは』とか『櫓が立っていたに違いない』などと想像力を総動員して楽しむことになります。山城初心者の方にはハードルが高そうに思えますが、この諏訪原城跡は第四段階の山城の中でも、雑木林が伐採されて見晴らしもよく、歩きやすい。堀や土塁、井戸もはっきりと残っていて、当時の様子がきちんとわかる。眺めるだけでワクワクしますよ」
諏訪原城は、偉大な父、信玄を亡くした勝頼が遠江攻略を目指す重要な拠点だった。城の南、大手(表口)側は平坦だが、扇状に配された曲輪(区画)の要に位置する本曲輪の東側は断崖絶壁。当時は眼下を大井川が流れ、がっちりと自然の地形に守られた「後ろ堅固」の城だった。しかし、天正3(1575)年、長篠・設楽原の戦いで、武田軍が織田・徳川軍に敗れると、ここには徳川家康が入城。牧野城と名を変えた家康は、大規模な改修工事を行った。

さっそく千田さんと歩いてみる。大手から入って、まず驚くのは右手に続く巨大な外堀だ。最大部で幅約25メートル、深さ約8メートル、全長約380メートルという規模である。いわく「空堀としては最大級」で、掘った土は、そのまま土塁の材料となったという。底から土を運び、積み上げるだけでも大変な作業だ。
「家康に工事を命じられた松平家忠の『家忠日記』によると、牧野城はずーっと工事をしています。すべて人力ですから、家臣たちは本当によく頑張りましたよね」
平成16(2004)年以降の発掘調査では、南側の二の曲輪東内馬出の堀などで徳川時代より深い地層に武田時代の堀が確認されている。
「当初、武田は断面がV字形の薬研堀にしていました。底が深くできて効率的ですが、堀底はVの字の一点なので堀の幅を広げるのが大変です。そこでのちに箱型の箱堀に変えた。これで幅は拡張できましたが、箱堀は敵方の通路にもなるのが難点。武将たちが長所と短所を検討しながらどう形作っていったか。考えると面白いですよね」

堀に沿って歩くと、この城の見どころとなる「丸馬出」が見えてきた。馬出とは、堀と土塁で囲い、左右に出入口を設けた出撃拠点のこと。馬出には、土塁をコの字形にした「角馬出」と半月形にした「丸馬出」があり、丸馬出は、武田流築城術の特徴といわれてきた。

諏訪原城で一番大きな「二の曲輪中馬出」は、大きな三日月形の堀と土塁に囲まれた巨大な丸馬出だ。正面から来る敵を土塁から攻撃し、左右から侵入しようとする敵を城の狭間(鉄砲や弓矢のための穴)から狙い撃ちできるようになっている。
「勝頼も家康も何万もの軍勢の攻撃を想定して改修したわけですから、馬出も大きくなる。戦国初期の多くの城は地域の小さな戦いに備えたが、末期には大名同士の大きな戦いに対応していった。馬出の巨大化は、その変遷を表しています」
復元された出入口の門から中へ進もうとすると、ヘアピンカーブのように曲がった狭い道や土橋、木橋が続く。これなら敵は容易に進入できない。
「いざとなれば、木橋を落として敵の進入を防げます。でも、道幅を狭くしすぎると味方が攻撃に出るのには不便。ここが難しいところで……果たしてちょうどいい道幅はどれくらいだったか? どんな建物で防御したのか? 想像するのが楽しくなりませんか(笑)」

奥まった本曲輪からは、島田市街が一望できる。左手には富士山、正面奥には、青い駿河湾と伊豆半島が見えた。
「家康もここに立ち、改修に奮闘する家臣たちと『天下を取りましょう』と語り合ったと思います。家康という人は、苦手な相手、嫌いな相手でも、どうして彼らは強いのかと考えて、いいところを自分の強さにしてしまう。そこが非常に面白い。この城も、馬出や城の基本設計である縄張りについて武田から学んでいるんですよね。だからこそ、天下を取った。そういう意味でも大変に興味深い城です。ゆっくり歩いて楽しんでくださいね」
(旅人・解説=千田嘉博 / 文=ペリー荻野 / 写真=荒井孝治)