赤坂英一の野球丸

2017年7月12日

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「約束が違う。来年からは東洋工業の社員にしてほしい」

 3年が過ぎ、通算成績は121試合、打率2割1分8厘、2本塁打、17打点。肩を故障して捕手としても芽が出ずに〝予定通り〟引退。これからは東洋工業のサラリーマンだと思っていたら、球団から突然、コーチになってほしいと要請されたのである。上田さんは怒った。

 「約束が違う。来年からは東洋工業の社員にしてほしい。こっちは最初から野球よりそれが主で広島に来とるんだ。そう文句を言ってたら、恒次さんに自宅へ呼ばれたんや」

 松田恒次の家を訪問する前、勝子夫人は「社長さんとケンカしないでくださいね」と言って上田さんを送り出したそうだ。「そのころから怒りっぽい人でしたから」と、インタビューの最中に笑っていた姿を思い出す。

 険しい表情で上がり込んだ松田邸で、上田さんは恒次にこう懇々と諭された。

 「上田くんを取ったのは、広島の幹部候補生として見込んだからこそなんだよ。これからの時代は企業も人、野球も人だ。人材が勝負になってくる。カープでいい選手を育てるには当然、いい指導者が必要だ。そういう指導者になってもらうため、人間教育というものを学んでほしい。ひとつ、やってみんか」

 渋々承諾した上田さんは、翌日から早速、東洋工業の指導者研修会に通い始めた。

 「毎朝7時に家を出て、会社の会議室で猛勉強です。朝8時から4時間、ぶっ続けでやったもんや。管理職の幹部候補生たちと一緒に、いろいろな講義を受けた。2カ月も通ったら、分厚い大学ノートがメモでいっぱいになった。さすがは天下の大企業、管理職の育成にここまでやっとるのかと、びっくりしました」

 とくに印象に残った講義は何か。そう質問すると、上田さんは当時の東洋工業・蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)コーチ、小沢通宏の名を挙げた。

 「小沢さんはぼくよりも5つ年上でね。現役時代、ハーフバックで活躍された方で、日本代表として五輪(1956年メルボルン五輪)に出場されたこともある。その小沢さんに、団体競技におけるリーダーシップとは何か、コミュニケーションを取ることがいかに大切か、という話を教わりました。具体的な状況に即した経験談で、随分参考になったなあ」

 改めて、いろんな引き出しを持っている名監督だったと思う。ご冥福をお祈りします。

  
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