2024年12月13日(金)

赤坂英一の野球丸

2017年7月12日

 今月1日に80歳で亡くなったプロ野球の名将・上田利治さんは広島OBだった。いや、広島の親会社・東洋工業(現マツダ)のOBだった、と言ったほうが正確かもしれない。

(iStock)

 上田さんの訃報を伝えたマスコミ各社は、当然のことながら、こぞって監督時代の輝かしい実績を詳しく振り返っていた。阪急(現オリックス)、日本ハムで計20年間采配を振り、通算1322勝(優勝5回・日本一3回、Aクラス14回)は史上7位。1773勝で歴代1位の鶴岡一人(元南海=現ソフトバンク)をはじめ、上田さんよりも上位に名を連ねる監督が選手時代に主力として活躍していたのに引き替え、上田さんは僅か3年で控え選手のまま引退している。無名の選手でも名将になれることを実証した最大の成功例として、その稀有な球歴が改めて評価されたのだ。

 では、上田さんは選手を引退後、阪急で名監督となる前、指導者としてどのような修行を積んだのだろうか。私は上田さんの生前、約5年前に都内にあったご自宅にお邪魔し、ご本人に直接うかがったことがある。

 上田さんは関西大学時代、正捕手として同級生のエース村山実(のちに阪神)とバッテリーを組み、全日本大学選手権で優勝した。この活躍ぶりを広島の大株主、東洋工業社長の松田恒次(現広島オーナー・松田元の祖父)に見込まれ、まだドラフト制度のなかった1959年に広島入りしている。

 「でも、ぼくはもともとプロ野球選手になるつもりはなかったんです。そんな自信なんかなかったし、一般入試で関大に入ったのも、弁護士になりたかったからなんやから。そしたら恒次さんに、きみの将来性を買っとるんだ、と言われてね。東洋工業で雇ってカープには出向社員として行ってもらう、3年ほどプレーして引退したら本社に戻してあげるよと、そういう約束で広島へ行ったんです」


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