2024年4月27日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2010年11月2日

 今回の一連のデモの当初の目的はどこにあったのか。北京の消息筋の話を総合すると、「劉暁波のノーベル平和賞授与を受けて大学生や知識人に民主化機運が高まることを恐れ、彼らの焦点を『反日』にそらそうとした」ということだ。だからこそ政治に関心の高い北京など大都市での反日デモは断固として回避する必要があった。日本にメッセージを投げる目的と、社会不満をガス抜きする目的を果たすため、政治的影響の低い地方都市での反日デモに限り黙認したのだ。

 つまり当局にとって上記の①が理想だが、不満の矛先を「日本」に向けているうちは、たとえ②に転化したとしても許容範囲という発想だ。しかし24日の陝西省宝鶏での反日デモでは、「日本」を利用しようという当局の狙いから外れ、「多党制」などを求める横断幕が登場、一気に事態は、胡指導部が最も恐れる③に変質したのだ。その後の反日デモについて当局が徹底的に取り締まる傾向を強めたのは、反日が民主化要求に変容することへの危機感が強かったからである。

 胡指導部は、「もう反日デモは起こせない」という懸念や、胡が出席予定の11月の横浜APEC(アジア太平洋経済協力会議首脳会議)もあり、対日関係の安定を急ごうとした。その結果が、ハノイでの首脳会談調整だった。しかし対日関係にはまだ、中国漁船衝突をめぐるビデオ映像公開や、「尖閣が日米安保条約の適用対象」と確認した日米外相会談など不安定要素も多い。首脳会談開催という柔軟対応を見せ、その直後に日本側に「反中的」言動があった場合、その弱腰姿勢がさらになる反日・反政府感情を巻き起こす。胡はこういった懸念を考え、温にいったん会談拒否を指示し、翌日10分間の「懇談」を命じ、自身の横浜行きに向け、対日関係改善の余地を残したと言えよう。

天安門事件前夜に似た状況

 こうした経過を見て「1980年代に同じことがあった」と指摘したのは、北京の知識人だ。

 85年の終戦記念日。当時の中曽根康弘首相は「戦後政治の総決算」をうたい靖国神社に公式参拝する。それを受け、北京大学や清華大学の学生ら1000人以上が天安門広場で反日デモ行進を行う。そして84年に日本の青年3000人を中国に招待するなど、日本に過剰な肩入れを行ってきた胡耀邦総書記は厳しい立場に追い込まれていく。中曽根は翌年の終戦記念日、参拝するかどうかの決断を迫られるが、中曽根は「保守派が巻き返しに出ている。おそらく胡耀邦がその標的だろう」(『自省録』)と考え、参拝を断念する。

 保守派長老は当時、歴史問題に起因する対日関係というより、むしろ胡耀邦の進める改革路線に批判を強め、追い落としを目論む中、胡が肩入れする日本問題も政治問題化していった。こうした保守派と胡耀邦との間の摩擦が続く中、86年12月に安徽省で民主化を要求する学生デモが火を噴く。鄧小平は翌年1月、「ここ数年来、一貫してブルジョワ自由化反対に十分な努力を行ってこなかったのは胡耀邦同志の重大な誤りだ」と批判、胡を失脚させた。

 学生デモに対し「われわれには官僚主義が存在しており、一部の騒ぎは正しい」(満妹著『思念依然無尽―回憶父親胡耀邦』)と認識していた胡は、政治改革に熱心であり、学生らから絶大な支持を得ていた。2年後の89年4月に胡が急死すると、追悼を契機に学生運動が始まり、それが民主化要求に変質し、同年6月の天安門事件につながるのである。


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