この熱き人々

2018年6月25日

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 家族はもちろん大反対。結婚以来、酒造りが始まると夫は蔵に寝泊まりして半年は帰らない生活を続けてきた妻にとっては、やっと手に入れた、夫が家にいる普通の生活なのだ。

 「何でこんな年になってまた酒造りを始めるのかって怒ってな。11月にここに入る時には身支度もしてくれんかった。だからワシ、ひとりで支度して勝手に出てきたんですわ。ハハハ」

 笑いながら、農口はちょっとうつむいて、自らの手をじっと見つめていた。ここまでやったんだからもういいだろうという切ない妻の願いと、ここまでやったんだから最後までやり遂げたいという自分の本当の気持ち。これまで酒のためだけに生きてきて、残りの人生もやっぱり酒のために生きたい。「勝手に」という言葉に、身勝手を承知しながらそうせざるを得なかった思いが滲(にじ)む。

新たな現場で新しい酒造り

 現場復帰とはいえ、真新しい蔵で臨むすべてが初めて尽くしの酒造りは、農口にとってかつて経験したことのない難しい状況への果敢な挑戦でもあったはずだ。年月を経て歴史を蔵の柱や梁にずっしり吸い込ませた酒蔵には蔵つき酵母が息づいていて、その蔵独特の味わいを醸し出すともいわれるが、新しい蔵には、蔵つき酵母がない。また杜氏は、一緒に酒を造る蔵人(くらびと)たちを束ねる頭(かしら)であり、一瞬一瞬変わる状況にチームで対応する指揮者でもある。気心の知れた蔵人と杜氏の信頼関係も酒の出来に影響するのだろうが、この度は蔵人を公募してのスタートである。

 農口と一緒に酒を造りたいと殺到した希望者の中から、8人を選んだ。多くは酒造りの経験のある人たちだが、勤務年数や経験はバラバラ。農口の酒に出会って酒に魅入られて弟子入りを切望した慶應義塾大学出身の未経験者。さらにはアメリカ人もいる。自らの酒造りを若い蔵人たちに伝え育てる任も負う農口の選抜基準は、夢をしっかりと持っている人。生活できればいいという思いが見える人はダメだと、きっぱり言い切る。

若い蔵人たちと。農口尚彦研究所のロゴが染め抜かれたのれんが目を引く

 「酒は、同じラベルのものは毎年同じ味で同じクオリティーのものを造らないといけない。毎年味が違っていたら造り手への信頼がなくなるからね。ただ、今回はすべての酒に自分のカラーを出して、一から新しく造るわけだ。本当に胃が痛くなる思いだったですね」

 これまでとは異質のプレッシャーと覚悟を持って酒造りに臨んだわけで、常にも増してエネルギーを要する半年だったのだろう。

 酒造りの第一歩は、運び込まれた米と向き合うのが最初の仕事。米は同じ品種でも毎年その性質は異なるという。米の状態を正確につかんで、いかに米の旨みを極限まで引き出せるかが杜氏の仕事なのだと農口は言う。たとえば昨年の米は生育過程で2度の台風に見舞われたこともあり、水の吸い込みが悪かったそうだ。

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